2024年9月15日日曜日

古代の「白布」

 

白布

「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」(『徴古雑抄』)

撰述日

天平19年2月11日(西暦747年)

記事

(前略)
合通分雑物参拾伍種
 繍八部帳壹張[長七尺 廣五尺]
 帳壹張[表紫、裏緑、在緒]
 呉人錦帳壹張[帳六尺二寸 廣五尺]
 秘錦(帳脱カ)貳張[一長七尺九寸 廣四尺九寸 一長七尺五寸 廣四尺九寸]
 毛錦帳貳張[一長九尺一寸 廣四尺四寸 一長九尺 廣四尺四寸]
 紫籠目紗垣代帳壹張[廣廿二幅]
 紫紗貳端[一長十三丈八寸 一長六丈三尺五寸]
 紺布幕肆張[各十六幅]
 紺布垣代帳肆張[各三幅]
 綵色画屏風貳牒
 牒子陸拾伍口
(中略)
 黒葛編簀陸拾枚  串簀伍枚
 簾壹伯貳拾壹枚[一枚錦端 四枚緑端 一枚黄端 五枚上野]
 長畳漆拾捌枚[二枚錦端 一枚緑端 六枚黄端 卅二枚紺布端 十六枚白布端 八枚折薦]
 半畳玖拾参枚[一枚錦端 五枚紫端 十三枚緑端 十七枚黄端 卅枚白布端 廿五枚折薦]
(後略)

出典

『大日本古文書』2(578頁~624頁の内607頁~611頁)(『徴古雑抄』文学博士小杉榲村所蔵)

「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」

撰述日

天平19年2月11日(西暦747年)

記事

(前略)
合塔分古帳長布壹佰捌拾玖端[紺布五十五端 白布一百三十四端]
(後略)

出典

『大日本古文書』2(624頁~662頁の内645頁)(大和國添上郡菩提山村正暦寺所蔵)

「経紙出納帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平勝寳4年(西暦752年)

記事

 九月十四日納色<金敷>紙参拾張[自内裏来]
      右依小僧都良弁師宣奉寫薬王菩薩本事品観世音菩薩普門品
      安楽行品  如来壽量品料
                  知呉原生人
   十九日納敷金緑紙壹伯玖拾漆張
      右依飯高命婦宣奉寫六十花厳経一部且納如前
        奉宣判官大蔵伊美吉
                     検納他田水主
   廿二日納白布紙拾張[白紙法花経料所欠]  

出典

『大日本古文書』3(594頁~616頁の内595頁~597頁)(『正倉院文書』小杉本紙筆外2)

「雜物請用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平寶字4年(西暦760年)

記事

(前略)
  衣二百五「*四」領[自内裏給出]
   卅四領朝服[二 領六位 一領七位 十六領初位 十五領无位]
   〓≪よんじゅう≫【四】「*三」領凡縫衣
    一領橡禅衣
    八領雜色刺物綿衣
    六領黄綿衣
    一領白橡綿衣
    十六領帛綿衣
    一領白橡綿□衣
    十一領帛汗衫
   百廿七領布縫衣
    九十二領禅衣
     七十四領調布衣[卅領洗染 十九領雜摺衣 百廿五領白布衣]
     十八領細布洗染衣
    卅五領綿布[十五領細布 廿領祖布]
   用衣百九十六領[給将領并雜工及優婆夷等]
   殘九領
    二領八位朝□(服カ)[一領在裏 工等[   一領无裏]
    一領橡禅衣
    五領帛汗衫
    一領祖布綿衣
(後略)

出典

『大日本古文書』4(459頁~483頁の内474頁~475頁)(『正倉院文書』続々修45帙5)

「経本并用紙注文」(『正倉院文書』)

撰述日

天平9年(西暦737年)9月1日

記事

白布紙法花経 長麻紙最勝王経
胡桃紙理趣分一巻 曼殊室理分二巻
<奈>那何室理分一巻 能断波若一巻「(楽書下同ジ)断 断 断」
千手千眼経一巻 新翻薬師二巻
本願薬一巻 布空羂索経一巻
  右十巻、
「(異筆)唐」

唐長麻紙一百張[用九十三枚半 残六枚] 白麻紙二百張[用一百八十二 残十五]「 (楽書)【経 経】」
胡桃紙四百〓≪よんじゅう≫張[用百八十三枚 残ニ百五十七] 八 「 (楽書)【布 空 羂 索 経 経 経】」
         (天平九年)九月一日

出典

『大日本古文書』24(58頁~59頁)(『正倉院文書』續々修37帙9)

 

「雜物請用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平寶字4年(西暦760年)

記事

  衣ニ百【五】「*四」領[自内裏給出]
   卅四両朝服[二領六位 一領七位 十六領初位 十五領無位]
   卅【四】「*三」領凡縫衣
    一領橡襌衣
    八領雑色刺物綿衣
    六領黄綿衣
    一領白橡綿衣
    十六両帛棉衣
    一領白橡棉□衣
    十一領帛汗衫
   百廿七領布縫衣
    九十二領襌衣
     七十四領調布衣[卅領洗染 十九領雑摺衣 百廿五領白布衣]
     十八領細布[十五領細布 廿領祖布]
    卅五領綿衣[十五領細布 廿領祖布]
   用衣百九十六領[給将領并雑工及優婆夷等]
   残九領
    二領八位朝□(服カ)[一領在裏 工等□ 一領無裏]
    一領橡襌衣
    五領帛汗衫
    一領祖布綿衣

出典

『大日本古文書』25(307頁~331頁の内322頁~324頁)(『正倉院文書』続々修45帙5)

2024年9月14日土曜日

筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背千部法華経校帳断簡

以下の記事は、奈国立博物館HP

https://www.narahaku.go.jp/collection/871-0.html

の転載。

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蔵品番号871-0
部 門書跡
区 分文書
部門番号書34
伝 来正倉院(奈良)伝来、蜂須賀家旧蔵
銘 文朱文方印十七顆「筑前國印」、釈文「受田参町漆段参佰歩/戸主物部牧夫 年陸拾肆歳 老夫 課戸/妻大家部咩豆賣 年伍拾肆歳 丁妻/男物部加布知麻呂 年参拾肆歳 正丁 嫡子/男物部奈美 年参拾歳 癈疾/男物部神山 年貳拾捌歳 正丁/男物部建 年貳拾肆歳 兵士/男物部久漏麻呂 年貳拾壹歳 正丁/男物部穂太利 年拾漆歳 少丁 上件五口 嫡弟/女物部沙婆賣 年貳拾陸歳     丁女 嫡女/孫物部小野 年伍歳 小子/孫物部高椅 年貳歳 緑兒/孫物部山井 年壹歳 緑兒 上件三口 奈美男/婦額田部阿久多賣 年貳拾貳歳 丁妻/婦妾ト部犬手賣 年拾貳歳 小女 上件二口 神山妻妾/孫物部荒手 年捌歳 小子/孫女物部泥豆賣 年貳歳 緑女 上件二口 神山男女/婦葛野部阿麻賣 年貳拾肆歳 丁妻 建妻/孫女物部比呂賣 年壹歳 緑女 建女/外孫女肥君堅魚賣 年漆歳 小女 佐婆賣女/肥君方見賣 年拾貳歳 小女 寄口/葛野部乎麻呂 年参拾伍歳 兵士 寄口/母葛野部美奈豆賣 年漆拾歳 耆女/妻中臣部宿古太賣 年貳拾伍歳 丁妻/男葛野部阿由比 年捌歳 小子 嫡子/男葛野部泥麻呂 年参歳 緑兒 嫡弟/弟葛野部止志 年拾陸歳 小子/妹葛野部天鳥賣 年貳拾貳歳 丁女/凡口貳拾漆{口貳拾不課{口四小子/口三緑兒/口一瘢疾/口六丁女/口三小女/口二緑兒/口一耆女}/口漆課{口二兵士/口三正丁/口一老夫/口一小丁}/受田参町玖段」、紙継ぎ目裏墨書「筑前國嶋郡川邊里大寶〔傍注(ママ)〕 大寶二年籍」、(紙背)釈文「志紀咋万呂百六十張【空□】 【梶取十八 石足十八 石村廿 高椅十七】/史戸木屋万呂百五十七張【空二】 【上毛野六十二 粟田六十二 石足六十 梶取卅八/下十九 上卌一 高椅十六 川原十六】/大原魚次百五十七張【空一】 【上毛野五十六 梶取五十八 石足六十三 上五十八/久米廿三 粟田廿一 下十九 *「卅九人成」】/余乙虫百五十七張【空二/破一】 【高椅六十五 石足五十五 梶取十九 川原廿三/粟田十九 下卅八 上毛野十八 上七十七】/大田廣嶋百五十七張【空一】 【梶取五十八 上百三 高椅七十三 石足廿三/上毛野廿一 川原廿 下十六】/錦部豊成百五十七張【空二/破一】 【下冊 上九十三 上毛野卌三 *「人成」 壹万呂廿三/高橋廿一 石足卅九 粟田卅九 梶取十六】/杖部子虫百五十七張【空二】 【高椅六十 上百 下五十八 石足十九/粟田廿三 屯万呂廿 梶取十八 上毛野十
指定名称筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背千部法華経校帳断簡
指定番号古文書00214
指定年月日昭和48年6月6日
文 献白鳳 : 花ひらく仏教美術 : 開館120年記念特別展. 奈良国立博物館, 2015, 298p.天平. 奈良国立博物館, 1998, 286p.奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, 350p.奈良国立博物館蔵品図版目録 書跡篇. 奈良国立博物館, 1990, 136p.

2024年9月9日月曜日

天平10年、東国防人の帰国

 すでに岸俊男氏の高論「防人考」(『万葉集大成』第11巻、特殊研究編、平凡社、昭和30年、106頁)に指摘してあるので、屋上屋を架す恐れがあるが、それでも岸氏の一歩先を行くチャレンジ精神だけでも知っていただきたいと考えて本稿を記す。

樋口隆康先生のご紹介で、岸先生にお目にかかった時、幼さゆえに私は質問攻めにして岸先生の貴重な研究時間を浪費させてしまった。先生のご不興を買ったと、今でも私は反省と後悔し切りである。私の研究関心は聖武天皇に有ったものの、生来の不勉強ゆえに的外れな質問に終始した。

その質問の一つが、天平10年の東国防人の帰国であった。周知のとおり、天平9年に防人は停止された。天平10年の『駿河国正税帳』によれば、

①伊豆(22人)

②甲斐(39人)

③相模(230人)

④安房(33人)

⑤上総(223人)

⑥下総(270人)

⑦常陸(265人)

の計1082人が駿河国を通過した。


2024年9月8日日曜日

佐賀県藤津郡ーー「藤津郡領葛津貞津」の「葛津氏」に関して

『日本三代実録』貞観8年 (866)7月15日条に「

「藤津郡領葛津貞津」

とある。この藤津郡が佐賀県藤津郡(肥前国藤津郡)であることは周知のとおりである。

 『肥前国風土記』 藤津郡

 「能美郷。 〈在郡東。 〉昔者、纏向日代宮御宇天皇、行幸之時、此里有土蜘蛛三人。 〈兄名大白、次名中白、弟名少白。 〉此人等、造堡隠居、 不肯降服。爾時、 遣

陪従 紀直等祖穉日子、 以且誅滅。 於茲、大白等三人、但叩頭、陳己罪過、共乞更生。因曰能美郷。」

によって、定説化されている。

さて、『先代旧事本紀』 巻10,『国造本紀』葛津立国造条に、

  葛津立国造   志賀高穴穂朝御世、紀直同祖、 大名草彦命児若彦命、 定賜国造

に見るように、肥前国藤津郡は葛津立国造が支配する地域であった。ここに「紀直同祖」とあるように、

『国造本紀』石見国造条に、

「石見国造    瑞籬朝御世、紀伊国造同祖、 蔭佐奈朝命児大屋古命、 定賜国造。 ]

にもあるように、石見国造とも同祖である。

そもそも『国造本紀』紀伊国造条に、

紀伊国造 橿原朝御世、神皇産霊命五世孫、天道根命定賜国造。 

と同一な氏族であり、本宗が紀伊国造であると信じられていたらしい。

しかしながら、紀伊国造もしくは紀伊直を本宗とする一族は、『国造本紀』だけでも以下の地域を確認できる。


大伯国造 軽嶋豊明朝御世、神魂命七世孫佐紀足尼、定賜国造。 

吉備中県国造 瑞籬朝御世、神魂命十世孫明石彦、定賜国造。 (備中国)

阿武国造 纏向日代朝御世、神魂命十姓孫味波々命、定賜国造。(長門国)

淡道国造 難波高津朝御世、神皇産霊尊九世孫矢口足尼、定賜国造。 (淡路国)

久味国造 軽嶋豊明朝御世、神魂尊十三世孫伊与主命、定賜国造。(伊予国)

天草国造 志賀高穴穂朝御世、神魂十三世孫建嶋松命、定賜国造。(肥後国)

さらに『新撰姓氏録』などによると、

①和泉国神別

②河内国神別

③大和国神別

④右京神別

⑤左京神別

⑥山城国神別

⑦摂津国神別

などに広く紀直氏同族が分布していた。

 そもそも紀直氏は紀ノ川中流域の豪族であったが、紀ノ川河口地域へ進出することで、大和王権と歩調を合わせる形で、王権の対外交渉役を担当するようになり、

『日本書紀』敏達12年 (583) 7月丁酉朔条に

「 詔曰。属我先考天皇之世。新羅滅内官家之国。〈天国排開広庭天皇廿三年任那為新羅所滅。故云新羅滅我内官家也。〉先考天皇謀復任那。不果而崩。不成其志。是以朕当奉助神謀復中興任那。今在百済、火葦北国造阿利斯登子。達率日羅賢而有勇。故朕欲与其人相計。乃遣紀国造押勝与吉備海部直羽嶋喚於百済

とあり、また『日本書紀』敏達十二年(五八三)十月条

「紀国造押勝等還自百済。復命於朝曰。百済国主奉惜日羅不肯聴上。」

とある記事に見るように、大和王権の命を受けて、紀伊国造押勝が対外交渉の一翼を担うまでに勢力を拡大したと考える。

 われらの視点を有明海周辺に戻すならば、出典は異なるものの、

葛津立国造   志賀高穴穂朝御世、紀直同祖、 大名草彦命児若彦命、 定賜国造

天草国造 志賀高穴穂朝御世、神魂十三世孫建嶋松命、定賜国造。(肥後国)

に認めるように

*OO国造   志賀高穴穂朝御世、△△、 □□命、 定賜国造

の類型に気付く。ここで仮説を提出するならば志賀高穴穂朝 (成務朝)に、あたかも有明海周辺の諸豪族が紀直氏の同族連合を形成していると想定できないだろうか。確かに志賀高穴穂朝 (成務朝)に遡るには時代が古すぎるが、始祖伝承に必要なのは史実ではなく、皆が納得する「神話時代(あったかもしれないし、なかったかもしれない時代)」である。肥前国葛津地域そして肥後国天草の有力豪族が紀直氏の同地域進出の尖兵となり、紀直氏と同族となることで、大和政権における対外交渉有力メンバーと擬制的血縁関係を結ぶとともに、その対価として国造に任命されたにちがいない。とうぜんながら、紀直氏らの勢力は拡大することで、相互にWin-Win関係となったはずである。


 

 







国造が屯倉の管理を行っていたならば、



2024年9月1日日曜日

『続日本紀』神護景雲3年(769)8月丙辰条「始置大宰府綾師」2024年9月5日版

 『続日本紀』神護景雲3年(769)8月条に、

「丙辰、始置大宰府綾師」

とある。綾錦はハイクラスの絹織物である。

そもそも『続日本紀』和銅5年(712)閏6月丁巳条に

「丁巳、遣挑文師于諸國,始教習折錦綾」

とあり、また、『続日本紀』和銅5年(712)7月壬午条に

令伊勢、尾張、參河、駿河、伊豆、近江、越前、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、播磨、備前、備中、備後、安藝、紀伊、阿波、伊豫、讚岐等廿一國,始織綾錦。」

とあり、これら21か国に普及活動が始まった。

それだけに57年後に大宰府内に「綾師」を配置し、九州各地に綾錦紡織技術の普及を開始することになったのは、全国的に見るとかなり時間を要している。

しかしながら、なぜ、「神護景雲3年(769)8月」かの理由を推定しても良いのではないだろうか。なるほどそれを実証する具体的史料はないだけに、傍証を探し求めて、仮説を打ち出すしかない。それゆえに、まずは




大仏開眼会の際に聖武天皇が着用した靴は、百済手部の職人たちの手で製作された品

 古代朝廷で使用される靴履などは、中務省内蔵寮で製作された。

「典履2人(掌下縫作靴履鞍具、及検校百済手部)、百済手部十人(掌縫作事)」

とあり、百済手部10人の職人が天皇らの靴履鞍などを製作したとある。

 その製作場所は「左京六戸、紀伊四戸」(古記)により、二か所であったらしい。紀伊国が製作場所であったのは、



ところで、その靴履の原材料は、管見によると、

(1)丹波国 「御履牛皮弐張、充直稲壱伯玖拾束」(丹波国正税帳)

(2)周防国 「交易御履料牛皮弐領価稲壱伯七拾束」(周防国正税帳)

(3)駿河国 「御履皮弐張直稲弐伯玖拾束」(駿河国正税帳)

などから貢納された。この職人集団が形成された時期も、また解散した時期も不明であるが、天皇をはじめとする宮廷において、朝鮮半島流ファッションで製作された靴履鞍を着用していたらしい。

 なお、正倉院所蔵の衲御礼履などは百済手部によって製作されたと推定してよいのではあるまいか。

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衲御礼履 - 正倉院 (kunaicho.go.jp)

衲御礼履

のうのごらいり

用途 : 服飾品
技法 : 皮革
倉番 : 南倉 66
寸法 : 長31.5 高12.5 爪先幅14.5
材質・技法 : 赤染革 彩色(白) 金線 飾金具は銀台鍍金 真珠・色ガラス・水晶を嵌入 底敷は表裏とも白綾 藺むしろの芯
つま先が反り上がった、鼻高履とも呼ばれる浅型の靴。赤く染めた牛革製で、小口を白く塗り、金線で縁取りし、珠玉を嵌めた花形金具で飾る。天平勝宝4年(752)の大仏開眼会の際に聖武天皇が着用したものと考えられる。



参考文献

竹之内昭(元北海道大学農学研究科)著「古代の皮革」 

157_2.pdf (tokyo.lg.jp)