2024年5月30日木曜日

勇山伎美麻呂に関して

 天平12年’(740)、藤原広嗣の乱で、最初は広嗣軍に軍に加わり、のちに大野東人軍に帰順した勇山伎美麻呂の本拠は

☆三光村大字諫山(中津市三光諫山)

であつた。

2024年5月15日水曜日

頭陀親王入唐略記  宮内庁書陵部 https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000624030000

 

頭陀親王入唐略記(ずだしんのうにっとうりゃくき)

真如親王入唐略記 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム (kunaicho.go.jp)

貞観三年三月、親王、入唐を許さる。
六月十九日、池辺院より発し、南行して、巨勢寺に御宿す。別当僧平海、徒衆を率いて、まさに迎えんとす。<平海は此れ親王の御弟子なり。>親王、甚だ卑下し、僧徒の迎候を要めず。此の寺に経歴すること廿日なり。時に七大寺の長宿の和尚、朝夕、鳩集す。
七月十一日、巨勢寺より出でて、難破(波)津を指す。名僧数十許(ばかり)人、逐い従いて相送る。大和国葛上郡の旧国府に到る。

爰(ここ)に親王、馬を駐(とど)めて僧徒に揖謝(いっしゃ)して云(いわ)く、「此れ従(よ)りまさに却廻(きゃくかい)せらるべし」と。即ち僧徒、馬を下りて拝別す。皆な涙を垂れて云く、「僧、齢れに傾き、再展すること何日か」と。親王答えて云く、「彼れ此れ好在。縁に随いて相見ん」と。

其の晩頭、難破(波)津に到る。便に大宰貢綿帰船二隻こうめんきせん)を債り得る。
十三日、船二駕(の)る。

八月九日、大宰府鴻臚館に到着す。時に主船司の香山広貞、符(府か?)に申す。
(延文2年(1357) 賢宝書写 東寺観智院本)

参考
,佐伯 有清,『頭陀親王入唐略記』にみえる唐の高官.-浙東観察使と淮南節度使の人名,『日本古代中世の政治と宗教』吉川弘文館

和歌の流転-真如親王の「いふならく」の歌をめぐっ て言語: jpn 出版者: 明治大学日本文学研究会 公開日: 2013-05-24 キーワード (Ja): キーワード (En): 作成者: 山下, 哲郎 メールアドレス: 所属: メタデータ URL http://hdl.handle.net/10291/14930 

③杉本直治郎 『真如親王伝研究』(昭和四十年、吉川弘文館)


著作ID
3102338
統一書名
真如親王入唐略記(しんにょしんのうにっとうりゃっき)(Shinnyoshinnounittouryakki)
分類
記録
国書所在
【写】宮書(大正写一冊),九大(「真如親王渡略記」、空海和上伝記の内)
著作種別
和古書
著作ソース
『国書総目録』所収,1


資料種別
記事
著者・編者
田島 公
著者標目
タイトル(掲載誌)
歴史と地理 / 山川出版社 編
巻号年月日等(掲載誌)
(通号 502) 1997.06
掲載通号
502
掲載ページ
37~54
掲載年月日(W3CDTF)
1997-06
ISSN(掲載誌)
1343-5957



2024年5月13日月曜日

眞如親王入唐略記

 以下は、専修大学のHP掲載記事である。

『入唐五家傳』眞如親王入唐略記 (senshu-u.ac.jp)


入唐五家傳』眞如親王入唐略記

四。眞如親王入唐略記

傳云。親王歸命覺路。混形沙門。住東大寺。機明敏樂。渉内外眞言祕敎。究竟幽玄。貞觀四年奏請。擬入西唐。適蒙 勅許。乃乗一舶渡唐。高岳親王〈平城天皇皇太子。母贈從三位伊勢繼子。從四位下勲四等老人母女也〉大同四年四月十三日立爲太子。弘仁元年九月十三日廢皇太子。出家。貞觀清和三年四イ入唐法名眞如。元慶陽成五年十月。三日十イ自唐申遷化由。到流沙。於羅越國亡。云々


頭陀親王入唐略記

貞觀三年三月。親王被許入唐。

六月十九日。發自池邊院南行。御宿巨勢寺。別當僧平海率徒衆將迎。〈平海。此親王御弟子〉親王甚卑下。不要僧徒之迎候。經暦此寺廿日。于時七大寺長宿和尚朝夕鳩集。


七月十一日。出自巨勢寺。指難破津。名僧數十許人遂從相送。到大和國葛上郡舊國府。爰親王駐馬。楫謝僧徒云。從此應被却廻。卽僧徒下馬拜別。皆垂涙云。僧等齒傾暮。再展何日。親王答云。彼此好在。隨相見。其晩頭到難破津。便倩得太宰貢綿歸船二隻。

十三日駕船。

八月九日到著大宰府鴻臚館于時主船司香山弘貞申符。卽大貳藤原冬緒朝臣。筑前守藤原朝臣貞庭等。率隨身騎兵百餘人到來。頂拜存問。于時大唐商人李延存。在前居鴻臚北館。大貳明旦歸府。留貞庭朝臣云。求其間。結番遞候。親王我望非如此。今須早去。九月五日去向壹伎島。島司幷講讀師等亦來迎圍繞。親王彌厭此事。□□左右自波渡著小島。〈此小島名云斑島云々〉於是白水郎多在。仍不(マヽ)。更移肥前國松浦郡之柏島。

十月七日仰唐通事張支信令造船一隻。

四年五月造舶已了。時到鴻臚館。七月中旬。率宗叡和尚。賢眞。慧蕚。忠全。安展。禪念。惠池。善寂。原懿。猷繼。船頭高丘眞今等。及控者十五人。〈此等竝伊勢氏人也〉師絃張支信。金文習。任仲元。〈三人竝唐人〉建部福成。大島智丸。〈二人竝此間人〉水手等。俗合六十人。駕舶離鴻臚館。赴遠値嘉島。

八月十九日。著于遠値嘉島。

九月三日。從東北風飛帆。其疾如矢。四日三夜馳渡之間。此月六日未時。順風忽止。逆浪打艫。收帆投沈石。而沈石不著海底。仍更讀儲網下之。網長五十餘丈。纔及海底。此時波濤甚高如山。終夜不息。舶上之人皆惶失度。異口同音。祈願佛神。但見親王神色不動。曉旦之間。風氣微扇。乃觀日暉。是如順風。乍嘉行矴挑帆。隨風而走。

七日午尅。遙見雲山。未尅著大唐明州之揚扇山。申尅到彼山石丹奥泊〈石丹奥。明州地名也〉 卽落帆下矴。見其涯上。有人數十許。喫酒皆脱被。坐倚子。乃看舶之來著皆驚起。各袗群立涯邊。見張支信問由。支信答云。此日本國求法僧徒等。於是彼群居者皆感歎。差使存問。兼獻送彼土梨柹甘蔗沙糖白蜜茗茶等數般。親王問支信云。此何等人。支信申云。此鹽商人也。親王歎云。雖是商人。體貌用麗如此也。卽謝答。贈以本國土物數種。爰彼商人等辭退不肯。以更遣友志。于時彼商人等雖受雑物。于謝還金銀之類云。異國珍物。遍命固厚。不見此明州。望海鎭登之遊宴。此歳大唐感通三年九月十三日。明州差使司馬李閑點撿舶上人物。奏聞京城。


其年十二月。勅符到云。須收彼器。或早隨故許者越州。五年。彼州觀察使鄭〈暉略〉更爲實錄。轉以言上。五月十一日。巡禮所々。求法從客蒙親王敎云。近來歴問天師之質我疑者。就此州節度使孤陶許入京之奏者。爰陶許奏時。被許入京。符九月到來。


十二月。親王。宗叡和尚。智聰。安展。禪念。及興房。任仲元。仕丁丈部秋丸等。駕江船牽索。傍水入京。但賢眞。惠萼。忠全。幷小師弓手柂師水手等。此年四月。自明州令歸本國畢。然親渡淮至細州普光寺。此僧伽和尚入定寺也。汴河凍不得進御。仍蹔寄住件寺。多錢物供養和尚靈像衆僧。六年二月中旬。得凍解。駕江船河汴者日。買鞍馬。自陸入京。但宗叡和尚。依有宿自汴州相別。取河中府道。向五臺山。同晦頭。親王至洛陽。掩留五日。尋師聽讀。無人敎授。卽出自定斯過天津福橋白馬寺(マヽ)等。五月廿一日到長安城。入自眷門。安于西明寺。本國留學圓載法師奏聞親王入城之由。皇帝感歎。仰請來阿闍梨。令決難疑。經六箇月。問難闍梨不能蒙。同更令圓載奏可渡西天竺。其事勅許。官符施行。廣州亦。興房此年十月九日。於長安承仰事。獨自却廻淮南。請取處處寄附功徳雑物。或有不早還者。或有詐相爭者。由斯通掲府。被詐令糺之間。宗叡和尚。感通六年自長安歸來云。件雑物早請取。可向尚廣州者。興房此論得雑物。欲參赴廣州之間。任仲元將敎書來之。令侍興房。不遠進發有期。不可稽留。乃正月廿七日。率安展圓覺秋丸等。向西已了。須停起來。早駕李延孝舶本國者。因宗叡和尚興房等。同年六月。延孝舶。自大唐福州得順風。五日四夜。著値嘉島。但智聰法師。尚往大唐不來。仍略記如件。

記註申伊勢興房云八十二千州内縣員三千三百七十二。國内市員存十二。加長安寺員四十萬八千七十二。塔寺廿萬千二。長安市内八十六町。印内尼市人員二千九百六十人。印司長官。四位次官。五位錄事。七位使生。八位使部八十人。陽州出擧正税三千七百萬束。明州出擧正税二百萬束。東越州陽州城去一千八百里。雑三千百八里。渤海州城去四千里。百濟州城去二千九百里。大唐國相從他國一千八百里。中有皇國一千八國。無皇國八百六十國之中有職國九百國。異國百六十國之中陸道六百六十八國。海道一千二百國也。陽州一年稻二度殖苅。蠶養四度。施綿泰多無比之。

在唐好眞牒。  好眞伏聞。敎興天竺。傳授支那。摩騰入漢。乗白馬以駄經。僧會來。舎利以主乗。降續來三藏不名言。聖典聿興。遐邇遍布。且好眞(マヽ)。頃年隨師良大德。適獲屆大唐。不幸和尚在唐遷化。〈好眞〉因修駐留陪講。々雖以聽採。未苦深和。今伏見上都崇聖寺長講經律弘擧大德。志在傳燈。灑法雨。虔誠三請。願赴本國之宗源。闡一乗之法相。伏蒙開慈悲之路。啓提誘之方。允許降臨。親飛杖錫。將數百卷之眞語。官船以解纜。庶福龍圖。社稷祥耀遍霑雨。謹具事由申報。伏乞柏公仁恩。特賜奏。牒件如前。 謹牒


唐景福二年閏五月十五日 在唐僧好眞 牒


太政官符大宰府

應給衣粮大弘擧事右得在唐僧好眞 牒偁。上都崇聖寺長講經律弘擧大德。志在傳燈。偏灑法雨。虔誠三請。願赴本國慈悲允許。藏錫解纜。謹具事由申報。伏乞仁恩。特賜奏。中納言兼右近衛大將從三位行春宮大夫藤原朝臣時平宣。奉 勅如好眞弘擧大德望須加勞來。以慰旅情者。府宜承知。量給生物。兼賜時觸事傍。符到奉行。

從五位上守右中辨

正七位下守右大吏兼春宮太屬生忌寸

寛平五年八月十六日


太政官符大宰府

應大唐商人周汾等六十人事

右得七月廿三日解偁。件唐人。今月八日駕大舶。來著(マヽ)復有爲合。監文室時實等發遣。爰時實牒。以廿一日。於博多津。件唐船便風飛帆。到著此津者。合進覽物帳。且差脚中雑物。子細勘錄。追申上者。右大將中納言宣。奉 勅宜准量供給者。府宜承知。依宣行之。符到奉行。


眞如親王入唐略記


仏教美術(110) 第26回東大寺現代仏教講演会「真如親王 ~平安時代の大仏修復と天竺への旅~」聴講記 その3  (fc2.com)



以下は、西山先生の労作。


(No108)-3 第26回東大寺現代仏教講演会「真如親王 ~平安時代の大仏修復と天竺への旅~」聴講記 その3 


 2007年10月20日に開催された講演会の聴講記。

 後半は、西山厚奈良国立博物館教育室長の講演の続き。




真如親王年譜(その4)
年齢西暦年号事象
63861貞観033月? 「諸国の山林を跋渉し、斗藪の勝跡を渇仰したい」と願い出る。
  6月19日 池辺院(超昇寺)を出発し、唐へ旅立つ。
池辺院→朱雀門跡→旧朱雀大路→羅城門跡→下ツ道→旧藤原京→巨勢寺
  7月11日 巨勢寺を発って難波津に着く。
  8月9日 大宰府に着く。
64862貞観04
(咸通3)
5月 船の建造が終る。
  7月 博多津を発つ。
  8月19日 遠値嘉嶋(五島列島)に着く。
  9月3日 総勢60人(真如、宗叡、恵蕚、伊勢興房ら)、唐へ向かって船出する。
  9月7日 中国明州に着く。
  12月 越州に行くことが許可される。
65863貞観05
(咸通4)
越州、杭州、揚州へ。さらに楚州、泗州へ。泗州の普光王寺に滞在する。
  4月 随伴して来た人々を明州から帰国させる。
66864貞観06
(咸通5)
2月 泗州から汴州へ。さらに洛陽へ(2月29日着)
  5月21日 長安に着き、西明寺に入る。
   円載、真如が長安に着いたことを奏聞する。皇帝懿宗、感嘆する。
仏教教義の疑問が解決せず、天竺に亙ることを決意する。天竺行きが勅許される。
67865貞観07
(咸通6)
1月27日 安展・円覚・秋丸と、広州から船で天竺に向かう。
  6月 宗叡・伊勢興房、李延孝の船で帰国。宗叡、真如から聖教を託される。
 876貞観18入唐僧の中瓘から「録記」が届く。「風聞、羅越国より至る。逆旅に遷化すと。」 ※ 羅越国=マレー半島の南端(シンガポールあたり)

 真如親王

2024年5月12日日曜日

『万葉集』20巻-4337の有度部牛麻呂に関して

  『万葉集』20巻-4337

 美豆等利乃 多知能已蘇岐尓 父母尓 毛能波須價尓弖 已麻叙久夜志伎

水鳥の発ちの急きに父母に物言はず来(け)にて今ぞ悔しき

右一首上丁有度部牛麻呂

(二月七日駿河國防人部領使守従五位下布勢朝臣人主實進九日。歌數廿首。但拙劣歌者不取載之)

 

 

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*有度部 

静岡市清水区南西部に位置する「有度地区」は、かつては有渡郡安倍郡に属していた有度村が基本となっています。

 1889年(明治22年)の町村制施行によって、吉川村、長崎村、長崎新田、堀込村、北脇村、北脇新田、渋川村、上原村、半左衛門新田、楠村、楠新田、七ツ新屋村、七ツ新屋新田、今泉村の大部分、有東坂村の大部分、草薙村、馬走村、中吉田村、谷田村、中之郷村、平沢村、船越村(一部)が合併して有渡郡有度村(郡名は「有渡」、村名は「有度」)が発足しました。
 郡制施行(1896年/明治29年)により、安倍郡有度村に変更され、49年後の1955年(昭和30年)に安倍郡有度村は清水市(2003年/平成15年に静岡市と合併、2005年/平成17年の政令指定都市移行により清水区)に編入され、有度村廃止されました。
 1958年(昭和33年)清水市に属していた中吉田と平沢の全部、谷田と中之郷の一部は静岡市に編入。また現在は、有度村に属していた、渋川と北脇新田は入江地区に、今泉と有東坂ならびに船越は船越地区に属しています。」(有度地区まちつくり推進委員会、(有度地区の歴史 | 有度地区まちづくり推進委員会 (udo-machidukuri.org)
とある。現在の静岡市清水区であるらしい。

さて、有度の読み方であるが、「「和名抄」東急本国郡部に「有度」とみえ、「宇止」の訓がある。」という。「uto」と読むか、「Udo」と読むべきかは判断しがたい。

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*有度部牛麻呂
→有度部はこの事例以外に類例を知らないが、『天平十年駿河国正税帳』 には、次のような記事がある。  

 「従陸奥国送摂津職 俘囚部領使相模国余綾団大毅大初位下丈部小山上一口従一口三郡別一日食 為単陸日上三口 従三口

俘囚部領大住団少毅大初位下当麻部国勝上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口 当国俘囚部領使史生従八位上岸田朝臣継手上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口従三口 俘囚部領安倍団少毅従八位上有度部黒背上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口  

従陸奥国送 摂津職 俘囚壱伯壱拾伍人部従六郡別半日食為単参伯肆拾伍日従」(『大日本古文書』2巻109頁)





蝦夷の西国移配

 『天平十年駿河国正税帳』 には、次のような記事がある。  

 「従陸奥国送摂津職 俘囚部領使相模国余綾団大毅大初位下丈部小山上一口従一口三郡別一日食 為単陸日上三口 従三口

俘囚部領大住団少毅大初位下当麻部国勝上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口 当国俘囚部領使史生従八位上岸田朝臣継手上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口従三口 俘囚部領安倍団少毅従八位上有度部黒背上一口従一口三郡別一日食為単陸日上三口 従三口  

従陸奥国送 摂津職 俘囚壱伯壱拾伍人部従六郡別半日食為単参伯肆拾伍日従」(『大日本古文書』2巻109頁)

とあり、天平8年(738)に陸奥国から摂津国へ移動する「俘囚(引用者註:蝦夷)壱伯壱拾伍人」の存在を知る。


また、前の記事から28年後の、『続日本紀』宝亀 7 年(776) 9 月 13 日条 にも、

「陸奥国俘囚三百九十五人-配大宰府管内諸国」

とあり、その同年、『続日本紀』宝亀 7 年(776) 11 月 29 日条 にも、

「出羽国俘囚三百五十八人配 大宰府管内及讃岐国 、其七十八人班諸司及参議已、為 賤。」

とある。