韓朝彩については、『続日本紀』に
「《天平宝字八年(七六四)七月甲寅【十九】》○甲寅。新羅使大奈麻金才伯等九十一人、到着、大宰博多津。遣右少弁従五位下紀朝臣牛養。授刀大尉外従五位下粟田朝臣道麻呂等。問其由緒。金才伯等言曰。唐国勅使韓朝彩、自渤海来云。送日本国僧戒融。令達本郷已畢。若平安帰郷者。当有報信。而至于今日。寂無来音。宜差此使、其消息欲奏天子。仍齎執事牒。参大宰府。其朝彩者。上道在於新羅西津。本国謝恩使蘇判金容為取大宰報牒寄附朝彩。在京未発。問曰。比来彼国投化百姓言。本国発兵警備。是疑、日本国之来問罪也。其事虚実如何。対曰。唐国擾乱。海賊寔繁。是以徴発甲兵。防守縁辺。乃是国家之設。事既不虚。及其帰日。大宰府報牒新羅執事曰。検案内。被乾政官符称。得大宰府解称。得新羅国牒称、依韓内常侍請欲知僧戒融達不。府具状申上者。以去年十月。従高麗国。還帰聖朝。府宜承知即令報知」
とある。
私の関心は唐から新羅を経由して渤海へ行き、さらに渤海から直接に海を渡り、日本に帰ってきた日本僧戒融にあるのでもなく、また新羅使金才伯らが大宰府管下の博多津に到着 したという点にもない。
ただ一つ、韓朝彩の官位である。
『 陸宣公翰苑集』巻10・ 制詰 〔鉄券慰間勅書〕「 今故 遣、太常少卿兼御史大夫沈房及中使韓朝彩等」
とある記事を 、赤羽目匡由氏の高論「8世紀中葉における新羅と渤海との通交関係」37頁で知ったからである。「中使」とあることで、韓朝彩は宦官であるという
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