赤司氏の結論:大伴旅人の邸宅は大宰府政庁に隣接して独立した一院を構成する月山東官衙に想定できる。(16頁)
冒頭部では、従来の旅人邸の候補地比定の不確かさを赤司氏は指摘する。
1,坂本八幡宮説
2,榎社説
の2説を手際よく整理しながら、その両説の成立根拠の薄弱さを説く。
まず、そもそも坂本八幡宮説を唱える竹岡勝也・鏡山猛・筑紫豊説が「(大宰府)政庁跡後方に位置する西北台地だった」はずが、
いつの間にか「坂本八幡宮」説へと変貌し、観光パンフレットにも取り上げられることで人口に膾炙する結果となったという。
要するに、坂本八幡宮説の拠り所が不十分とする。この指摘は正鵠を得ているだろう。
次に榎社説にしても、榎社境内の発掘調査で出土した「白玉帯」に注目する井上信正氏の主張を紹介しながら、
その「白玉帯は延暦14(795)年以降に参議以上が着用することになっている」(8頁)ので、
やはり旅人の時代との年代差を以て、その成立に難色を示している。
それでは、赤司氏の研究視点はいかがであろうか。
赤司氏の指摘にある通り、
「古代の大宰府は平城京と同時期に建設され、設計プランも平城京に準じた条坊制を参考に計画された可能性が高い」(10頁)という仮説を 提出しつつ、そのうえで、平城京の例を基盤にして、「太宰帥クラスの三位にある有力貴族の邸宅は、遷都当初は宮に近い左京(東側)に位置する例が多い」(11頁)と考えて、その平行事例を大宰府に探し求める。
具体的は、次の記述からも判明しよう。「平城京の事例を参考にすると、平城京に東接していた藤原不比等邸の位置にあたるのは
月山東地区官衙である」(14頁)と言う仮説を立てる。
この赤司説にしても、明確な考古学的発掘結果をもとにして立論をしているのではなく、月山東地区と政庁との位置、さらにはそこに見る「石敷き水路」の存在などを根拠として推論するだけであり、やはり決定打に欠けるのはいなめない。
卑見によれば、現段階では、やはり赤司説に軍配を上げたい。その明白な傍証はないものの、一番の魅力は大宰府政庁に隣接することである。
私の関心は、天平2年正月13日に大伴旅人邸で読まれた、万葉集第5巻に収録された「梅花の歌」32首の理解にあり、その新たな読みを提示することにある。
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