2021年12月10日金曜日

玄昉の大宰府への左遷

 天平17年(745)11月、玄昉は大宰府へ左遷させられる。そして同年11月17日条に「僧玄昉の封物を収む」(『続日本紀』)とあり、しかも「納櫃本経検定並出入帳」(天平17年7月)の同年10月10日条に「玄昉師物検使所」とあるので、その年の10月ごろまでには玄昉は失脚していたと考えてよい。

 そして玄昉は天平18年〈746〉6月18日に、失意のまま大宰府のどこかで死去。唐への留学から帰国したのが天平7年〈735〉であるので、帰国後わずか10年ばかりの間に、玄昉の浮き沈みの大きい人生が終焉を迎えた。

 玄昉の俗姓は「阿刀氏」。阿刀氏の本貫は河内国渋川郡跡部郷。古代には、阿刀連智徳、阿刀宿祢雄足、僧善珠、阿刀宿祢大足などがいる。法相宗の僧。天皇家に近侍する看病僧的存在。天平9年12月、玄昉は皇太后藤原宮子の治療に当たる。精神を患っていた宮子はたちまちに正常な心身に立ち戻ったという。その時から聖武天皇と光明皇后の玄昉に対する絶大な信頼を得ることになった。

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