2024年11月18日月曜日

按摩と典薬寮の「按摩博士」

 「按蹻」(『黄帝内経素問』異法方宜論)、「喬摩」(『黄帝内経霊枢』病伝篇)はすべて「按摩」(『黄帝内経霊枢』九鍼論)の異称である。遣隋使や遣唐使らによって、日本に持ち込まれた按摩術は『養老令』に

醫疾令第一 醫博士條:醫博士。取醫人內。法術優長者為之。按摩咒禁博士。亦准此。

醫疾令第二 醫生等取藥部及世習條:凡醫生。按摩生。咒禁生。藥園生。先取藥部及世習次取庶人年十三以上。十六以下。聰令者為之。」

醫疾令第三 醫針生受業條:醫針生。各分經受業。醫生。習甲乙。脈經。本草兼習小品。集驗等方針生。習素問。黃帝針經。明堂。脈決兼習流注。偃側等圖。赤烏神針等經。

醫疾令第四 醫針生初入學條:醫針生。初入學者。先讀本草。脈決。明堂讀本草者。即令識藥形藥性讀明堂者。即令驗圖識其孔穴讀脈決者。令遞相診候使知四時浮沈澁滑之狀次讀素問。黃帝針經。甲乙。脈經皆使精熟其兼習之業。各令通利。

醫疾令第五 醫生教習條:醫生既讀諸經乃分業教習。率廿。以十二人學体療三人學創腫三人學少小二人學耳目口齒各專其業。

醫疾令第六 醫針生誦古方條:醫針生。各從所習。鈔古方誦之。其上手醫。有療疾之處令其隨從。習知合針灸之法。

醫疾令第七 醫針生考試條:凡醫針生。博士一月一試。典藥頭助。一季一試。宮內卿輔。年終惣試。【其考試法式。一准大學生例】若業術灼然。過於見任官者。即聽補替其在學九年。無成者。退從本色。

醫疾令第八 醫針生成業條:學体療者。限七年成學。少小及創腫者。各五年成學。耳目口齒者。四年成。針生七年成。業成之日。令典藥寮業術優長者。就宮內省對丞以上。精加校練具述行業申送太政官。

醫疾令第九 自學習解醫療條:有私自學習。解醫療者投名典藥試驗堪者。聽准醫針生例考試。

醫疾令第十 醫針生束脩條:醫針生初入學。皆行束脩禮一准大學生其按摩咒禁生減半。

醫疾令十一 教習本草等條:教習本草。素問。黃帝針經。甲乙博士皆案文講說。如講五經之法。

醫疾令十二 定醫針師考第條:醫針師。典藥量其所能有病之處。遣為救療每年宮內省。試驗其識解優劣。差病多少以定考第。

醫疾令十三 醫針生選敘條:醫針生。業成送官者。式部覆試。各十二條。醫生試甲乙四條。本草。脈經各三條針生試素問四條。黃帝針經。明堂。脈決各二條其兼習之業。醫針各二條。問答法式。並准大學生例醫生全通。從八位下叔。通八以上大初位上敘。其針生。降醫生一等不第者。退還本學經雖不第而明於諸方量堪療病者。仍聽補醫師。

醫疾令十四 按摩咒禁生學習條:按摩生。學按摩傷折方及刺縛之法咒禁生。學咒禁解忤持禁之法皆限三年成。其業成之日。並申送太政官。

醫疾令十五 醫針生等不得雜使條:醫針生。按摩咒禁生。專令習業。不得雜使。

醫疾令十六 女醫條:女醫。取官戶婢年十五以上。廿五以下。性識慧了者三十人別所安置。教以安胎產難。及創腫傷折針灸之法皆案文口授。每月醫博士試。年終內藥司試。限七年成。

醫疾令十七 國醫生條:凡國醫生。業術優長。情願入仕者。本國具述芸能申送太政官。

醫疾令十八 國醫師條:凡國醫師。教授醫方及生徒課業年限。並准典藥寮教習法其余雜治。行用有效者。亦兼習之。

醫疾令十九 國醫生試條:凡國醫生。每月醫師試。年終國司對試。並明定優劣試有不通者。隨狀科罰。若不率師教數有霈犯及課業不充。終無長進者。隨事解黜。即立替人。

醫疾令二十 藥園條:凡藥園。令師檢校仍取園生教讀本草弁識諸藥并採種之法隨近山澤。有藥草之處。採握種之。所須人功。並役藥戶。

醫疾令廿一 依藥所出收採條:藥品施。典藥年別支料。依藥所霖出。申太政官散下。令隨時收採。

醫疾令廿二 採藥師條:國輸藥之處。置採藥師令以時採取其人功。取當處隨近下配支。

醫疾令廿三 合和御藥條:合和御藥中務少輔以上一人。共內藥正等監視。餌藥之日。侍醫先嘗。次內藥正嘗。次中務卿嘗。然後進御。【其中宮及東宮准此。】

醫疾令廿四 五位以上病患條:凡五位以上疾患者。並奏聞。遣醫為療。仍量病給藥。【致仕者亦准此。】

醫疾令廿五 典藥寮合雜藥條:典藥寮。每歲量合傷寒。時氣。瘧。利。傷中。金創。諸雜藥以擬療治。【諸國准此。】

醫疾令廿六 醫針師巡患家條:醫針師等。巡患之家所療。損與不損患家錄醫人姓名申宮內省據為黜陟。【諸國醫師亦准此。】」

 

この26条の中にある「醫疾令十四 按摩咒禁生學習條:按摩生。學按摩傷折方及刺縛之法咒禁生。學咒禁解忤持禁之法皆限三年成。其業成之日。並申送太政官」を見ると、學按摩傷折方及刺縛之法」とある。門外漢ゆえに今一つ不明であるが、

按摩生は、按摩、傷折〔しょうせつ〕(=打ち身・捻挫・骨折)の治療法、及び、刺縛〔しばく〕(=針 で悪血を瀉出したり、骨折過所を固定したりする)の技術を学ぶこと。咒禁生は、咒禁(=まじない) して邪気を払い病災を防ぐ方術を学ぶこと。みな3年を期限として成業させること。成業したならば、 いずれも太政官に申送すること。」Microsoft Word - 医疾令

と解読できるという。


2024年11月17日日曜日

薩摩守大伴家持が着任した薩摩国府周囲の村落とは、

『養老令』軍防令に

軍防令六五 東邊條:凡緣東邊北邊西邊諸郡人居。皆於城堡內安置。其營田之所。唯置庄舍、至農時堪營作者。出就庄田。收斂訖勒還。其城堡崩頹者。役當處居戶隨閑修理。」(東辺、北辺、西辺にある諸郡の人居は、皆、城堡に安置せよ。其の営田の所は唯庄舎を置け。農事に至り、営作に堪えたる者は出でて庄田に就け。収斂<収穫>訖り、牛馬を収めたならば<勒>、城堡に還ること。その城堡が崩頹したならば、當處の居戶を役して閑に修理せよ。)

とある記事を思い浮かべる。

北辺や東辺は陸奥や出羽であろうが、西辺は薩摩・大隅・日向を示すと考えてよい。

とすれば、薩摩守大伴家持が実見した村落とは、柵戸制であったと考えたい。つまり、肥後国人を薩摩に移配し、その農民を準戦闘員として城郭に安居させて、隼人と対峙させたと想定できないだろうか。

思い付きに過ぎないが、『続日本紀』天平2年3月条にある

「辛卯,大宰府言:「大隅、薩摩兩國百姓,建國以來,未曾班田。其所有田,悉是墾田。相承為佃,不願改動。若從班授,恐多喧訴。」於是,隨舊不動,各令自佃焉。」

の記事を理解するには、どのような考古学的発掘成果が必要だろうか。

事実、『続日本紀』大宝2年(702)条の

 「冬十月,
 丁酉,先是,征薩摩隼人時,禱祈大宰所部神九處,實賴神威,遂平荒賊。爰奉幣帛,以賽其禱焉。
 唱更國司等(今薩摩國也)、言、於國內要害之地,建置戍守之。許焉。」

とあり、同じ『続日本紀』天平神護2年(766)条に

六月、丁亥(3日)、日向・大隅・薩摩三國、大風。桑麻損盡。詔,勿收柵戶調庸(詔して柵戶の調庸を収むること勿からしめたまふ)。」

とある。





2024年11月9日土曜日

常陸国南部から武蔵国高麗郡に移住した高句麗人は、まず堂ノ根遺跡に定着か。

古代に興味を抱く者にとって、考古学者の研究の進展に学ぶ点が多いのは、いまさら論を要しまい。

武蔵国高麗郡は無住の地であったので、日高市史によると、次の史実を知る。

 「716年(霊亀2年)(今から1300年前)に、関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができました。

1300年前の武蔵国周辺の地図のイラスト

 「高麗郡」ができたことは、昔の歴史書である『続日本紀(しょくにほんき)』に書かれています。
 高麗人たちの渡来人は、大陸の進んだ技術や文化を伝えました。」


続日本紀や農具などのイラスト


高麗郡建郡1300年の歴史と文化/日高市ホームページ


もう少し補充説明をすれば、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国に居住していた1,799人の高麗人〔高句麗(こうくり)系渡来人及びその子孫〕達が、現在の日高・飯能市域を中心に設置された高麗郡に移動した(移動させられた)」と考えられる。天智5年(666)から持統4年(690)にかけて渡来した朝鮮半島出身の高句麗人の一部が東国7か国にいったんは定着したものの、そこからさらに武蔵国高麗郡に移り来たと説く。

此の翌年、つまり養老元年(717)には朝鮮半島からの渡来人(百済人・高句麗人)に対して、『続日本紀』養老元年11月条に

 甲辰,高麗、百濟二國士卒,遭本國亂,投於聖化。朝庭憐其絕域,給復終身。」

とあり、終身課役を免除する特権に恵まれたので、高麗郡に集合した約1800人の高句麗人に朗報となっただろう。

人が移動すれば、文化や親族組織、居住形態、さらには生業・物質文化・宗教生活.など多様な文化要素が移動する。


考古学的発掘成果が各地から積みあがると、慧眼の考古学者によって鋭い着眼に驚かされる。

高麗人の移住を証明する資料が、飯能市内の遺跡発掘調査で発見されています。堂ノ根(どうのね)遺跡1号住居跡出土資料です(飯能市指定文化財 写真)。須恵器〔すえき 窯を使い高温で焼成(しょうせい)した灰色・硬質の土器〕の坏〔つき 飲食物を盛った椀形の器(うつわ)〕と蓋には、金雲母(きんうんも)や白色の長石(ちょうせき)が含まれ、常陸国(ひたちのくに 現在の茨城県)の窯で焼かれた須恵器と考えられています。また、土師器(はじき 野焼きした赤褐色・軟質の土器)の甕(かめ)は、その形と整形方法から「常総型(じょうそうがた)」と呼ばれる下総国(しもうさのくに ほぼ現在の千葉県北部)から常陸国南部に流通していたものとわかります。これらの土器の年代は7世紀末から8世紀前葉で、建郡の頃におおむね一致するため、常陸国南部あたりに住んでいた高麗人が、移住時に持ってきた可能性が考えられています。」

土器は出土状態から、1号住居跡の住人が使用したものと推測されます。1号住居跡は一辺約7メートルの竪穴で当時としてはかなり大きいことと、割れやすい土師器の甕を含め、まとまった数の土器を持参していることなどから、1号住居跡に住んだ高麗人は、比較的富裕な層であったと推定されています。(村上)」

注釈:堂ノ根遺跡( 埼玉県飯能市大字芦刈場字後野375-1 )

堂ノ根遺跡1号住居跡出土遺物 (市指定)/飯能市-Hanno City-


当然と言えば当然であるが、歴史的文献の説明の裏付けを求める考古学者が出現してもおかしくない、だからといって誰にもできる仕事ではなく、日々の考古学的発掘作業と並行して、少なくとも7か国の発掘報告書類に目を配り、連想と想像を重ねる地味な研鑽が求められる。

まず、この記述に注目されるのは、食糧難で住居もなく「追放された、行く当てもない流浪の民、高句麗人」が辿り着いたのではなく、「比較的富裕層」の高句麗人たちも中央政府の命令の下で移動させられた事実である。

次に、この七か国の人々は高麗郡に移り住んだのち、バラバラに散在したか、それとも集団で居住したかである。望蜀の感もあるが、高麗郡府から見て、どのような配置された各居住地であったのかも気になるところである。


それにしても不思議なのは、約1800人に達する高句麗人が、たとえ関東平野の空閑地であったとしても、高麗郡に集合させたか、である。これを語る資料はない。いつものように、古代において記述するまでもなく、誰もの周知の事実であったからである。時を経た我々を悩ますのは、当時の常識や通念を持ち合わせないゆえに、文献資料の骨片から推測をするしかない。

 次のように。高麗郡出身者でもっとも著名人は、旧姓「背奈」の高倉福信であることに誰しも異論を唱えないだろう。「背奈」姓といえば、彼のサクセスストリーは別としても、彼が天平宝字元年(757)に、藤原仲麻呂と共に造東大寺司に対して緑青616斤8両を上納した事実である(『『大日本古文書』4-223頁)。

 背奈氏が高麗郡に近接する秩父の銅山から産出する緑青をまとまって入手できることから推測して、直接に銅山経営に手を染めていたか、それともその技術を所有していたか、さらには豊かな財力を以て購入できたかなどを仮定できる。

 エビデンスもないままのまったくのあてずっぽうであるが、背奈氏は朝鮮半島から持参した緑青製造技術を保持していたか、あるいはその技術者を配下に於いていたことは確実である。 ところで、それを平城京に大量に運搬した時に、何に活用したかを問わなくてはならない。

私の仮説は次の通りである。例えば平城京が「青丹によし奈良の都」とよばれたように、日中韓の寺刹は「丹青」も塗布していた。日中韓における丹青顔料「緑青」は、蓮の葉のように濃い緑色を帯び「荷葉」と呼んだ。その緑青製造法を熟知していたのが、朝鮮半島からの渡来人であった背奈氏であったと思われる。

当時の平城京では、大規模な仏教寺院や仏教美術品に大量な緑青の需要があった。各地から進上されたにせよ、背奈氏の関与を特記し、しかも時の権力者藤原仲麻呂と併記している点に、その記述の裏面にある政治的な思惑を想像させる。

なお、秩父鉱業所のHPによると、「緑青」を作る孔雀石は、

https://trekgeo.net/m/s/chrysocollaCHICHIBU.htm

次のような4鉱山↓での採掘地を知る。

幅30mm。結晶質石灰岩中に見られる塊状の珪孔雀石。 薄青塊状の部分が珪孔雀石。周囲の薄茶色の部分は褐鉄鉱で汚染された大理石。 左上のやや錆びた金色の部分は黄銅鉱で、珪孔雀石はこれから導かれた。

I型(磁鉄鉱系列)の石英閃緑岩の接触変成によるスカルンと複合した中低温熱水鉱床の天水酸化帯より。

この産地の珪孔雀石は、1929年(昭和4年)に初めて記載された。

別産地の例




参考文献

飯能市遺跡調査会『堂ノ根遺跡第1次調査』(飯能市遺跡調査会 1993年)
飯能市教育委員会『掘り起こせ!地中からのメッセージ』(飯能市教育委員会 2010年)
富元久美子「渡来人による新郡開発 ―武蔵国高麗郡―」『古代の開発と地域の力』(高志書院 2014年)

富元久美子「高麗郡建都と東金子窯」211-228頁

【平成28年8月号】高麗人(こまひと)移住を物語る土器たち/飯能市-Hanno City-


なお、下記の報告によると、

堂ノ根遺跡1号住居跡出土遺物 (市指定)/飯能市-Hanno City-

「指定された出土遺物は、破片も含めて総点数208点(うち常陸産80点)から成っています。内訳は、以下の通りです。

  • 須恵器(すえき)…坏(つき) 10点、蓋(ふた) 8点、甕(かめ) 5点
  • 土師器(はじき)…坏 34点、甕 151点

 これらは当地域の古代史を解明する上で不可欠であり、とても重要な資料です。

堂ノ根遺跡1号住居跡出土遺物


鮑鮨などーお勉強報告まで

この年齢に至って、 いまさら、食通だ美食家だと自認するつもりなどない。美食家とは程遠い食生活を長い間してきただけに、その後悔の念は多分にある。

好物はお寿司とクラムチャウダーである。Boston風クラムチャウダーの話は別稿に譲る。

さて、江戸前鮨ファンである。お寿司屋さんのカウンターに座り、「大将、お任せで」という経験もないものの、生来の旅好き、日本各地、そしてアジア・欧米でのお寿司は楽しみであった。韓流ドラマに見る通り、世界では日本料理やお寿司は高級なフードであり、しかも生魚を取り扱うだけに独特なカテゴリーに属する。好き嫌いが多いので、私も親友のUCLA教授ご夫妻を銀座の日本料理屋さんにご招待した時に、大失敗をした。彼らは生魚を口にできなかったからである。

ところで、お寿司に「なれずし」(約3ヶ月~1年の発酵期間)と「生なれずし」(約2週間~1ヶ月ほど)との区別があるのも、その旅の途中であった。中尾佐助先生の照葉樹林文化論を学んでいただけに、さほどおどろきはなかったものの、東南アジアでのお寿司には「やはり、これだったのか」という思いを持った。

以下は、鮑鮨探求の旅のお勉強報告。


【永久保存版】都道府県別 日本全国の各地のすし&郷土寿司、死ぬまでに食べたいもの一覧表 | Sushi Sakana design 参照。

①秋田のハタハタずし<八森産(秋田県山本郡)>

酒田のかゆずし

>>山形県酒田市の郷土料理で、かゆ状のなれずし。

「熱い飯にこうじを混ぜてから冷まし、酒、塩を加えて、細かくちぎった鮭(さけ)の肉、砕いた数の子、のり、にんじんなどを混ぜあわせ、かめに数日間ねかせたものです。」https://oisiiryouri.com/kayuzushi-imi/

③岐阜のアユのなれずし

>>以下は、https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/38_7_gifu.html

からの転載。

③石川のかぶらずし、

>>https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/kaburazushi_ishikawa.html

紀伊半島南端部・熊野地方のサンマずし、

>>


ところで、以下は、若狭なれずしのルポ。


すしのルーツ:若狭で伝承される「へしこのなれずし」 — Google Arts & Culture


すしのルーツ:若狭で伝承された「へしこのなれずし」

(たがらす)地区に伝わるなれずしは、鯖のへしこから漬け込むところに大きな特徴があります。『へしこ』とは、魚の糠漬けのこと。脂ののった鯖を、塩と米ぬか(玄米を白米に精米する際にとれる外皮や胚の粉)に漬け込み、約1年という時間をかけて作ります。


そして、鯖のへしこをさらに米と米麹に漬け込んでできるのが『鯖のへしこのなれずし』です。「昔この辺りでは、各家庭でつくっていたんですよ」 子どもの頃からその味に親しんできたという森下さんに、実際にへしこをつくっている、へしこ小屋をみせてもらいました

2024年11月7日木曜日

日本古代の鮑、アワビ料理あれこれ

アワビの漢字表記には、「 鰒・鮑・蚫・鰒魚」などがある。

古代日本のアワビ研究は大変に人気分野であり、

 高山直子「あわびの歴史―熨斗鰒の問題を中心 に―」(『風俗』4―3,1964年)

矢野憲一『鮑(ものと 人間の文化史62)』(法政大学出版局,1989年)

狩野久「膳臣と阿曇連の勢力圏―古代におけ る鰒の収取について―」(『発掘文字が語る 古代王権と 列島社会』吉川弘文館,2010年,初出1995年),

大場俊 男『あわび文化と日本人』(成山堂書店,2000年)

宮原 武夫「東鰒と隠岐鰒」(『古代東国の調庸と農民』岩波書 店,2014年,初出2000年)

清武雄二『アワビと古代国家 『延喜式』にみる生産と管理(ブックレット〈書物をひらく〉24)』平凡 社,2021年

などの専論がある。

『賦役令』調絹絁条や『延喜式』主計寮上、諸国調条などでは、21か所から30種以上のアワビが貢納されており、平城京で大変に人気の高いシーフードであったらしい。

今、大宰府から平城京の内膳司に貢納された鰒だけでも、

①御取鰒459斤5裏

②短鰒518斤12裏

③薄鰒859斤15裏

④陰鰒86斤3裏

⑤羽割鰒39斤1裏

⑥火焼鰒335斤4裏 (已上調物)

⑦鮨鰒108斤3缶

⑧腸漬鰒296斤9缶

⑨甘腐鰒98斤2缶(已上中男作物)

とあり、これらのアワビの区別に関してはほとんで手がかりを持たないが、例えば、

清武雄二著「古代における長鰒(熨斗鰒)製造法の研究 加工実験・成分分析による実態的考察 (Ancient Methods of Noshiawabi Abalone-Drying: A Factual Study Based on Processing Experiments and Composition Analysis KIYOTAKE Yuji)」

古代の長鰒.pdf

等の論文に接するだけである。博雅の士に教えを請いたい。



(1)「鰒耳酢」

①<「酢鰒」(『平城木簡概報二十二』四〇頁下段、『同三十一』三五頁上段)、「耳鰒」(『同二十二』三七頁上段)、「鰒耳潰」(『同二十二』三八頁下段)とも

②<なれずし>か<なまなれずし>かの区分も不明。

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNC32000665
木簡番号665
本文鮑耳酢一斗□
寸法(mm)179
17
厚さ3
型式番号051
出典飛鳥藤原京1-665(木研21-27頁-(47)・飛14-12上(63))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。上端やや右上がりの緩やかな圭頭状、下端稜のない剣先形。
樹種ヒノキ科#
木取り追柾目
遺跡名飛鳥池遺跡北地区
所在地奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数飛鳥藤原第93次
遺構番号SD1108
地区名5BASNC32
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。上端はやや右上がりの緩やかな圭頭形。下端は稜のない剣先形。下約五分の二は表面が損傷する。鮑の木簡には加工法や使用部位を具体的に記す例が多く、「酢鮑」(奈良県教育委員会編『藤原宮跡出土木簡概報』一九六八年、六〇号)、「酢鰒」(『平城木簡概報二十二』四〇頁下段、『同三十一』三五頁上段)、「耳鰒」(『同二十二』三七頁上段)、「鰒耳潰」(『同二十二』三八頁下段)などがある。

(2)夏鰒

<わざわざ「夏」を付けなくてはならいない鰒とは何か、後考を俟つ>

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJFAG57000003
木簡番号0
本文夏鰒
寸法(mm)107
12
厚さ3
型式番号051
出典飛9-7上(3)
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名藤原宮跡内裏・内裏東官衙地区
所在地奈良県橿原市高殿町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第55次
遺構番号SD105
地区名6AJFAG57
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明 

(3)「加岐鰒(牡蛎+鰒)」は貢納品2種

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJAUB30000120
木簡番号1249
本文加岐鰒
寸法(mm)124
17
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮3-1249(飛5-12上(91)・日本古代木簡選)
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ△
木取り板目
遺跡名藤原宮跡東面北門
所在地奈良県橿原市高殿町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第27次
遺構番号SD170
地区名6AJAUB30
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。

(4)「玉貫(御取夏)鰒」(『延喜式』には、大宰府や志摩国御厨所進物か)
詳細
URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAFJN34000003
木簡番号2796
本文玉貫鮑二□〔古ヵ〕
寸法(mm)191
23
厚さ5
型式番号032
出典平城宮2-2796(城3-10下(187))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮東院地区西辺
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所
発掘次数22S
遺構番号SD3170
地区名6AAFJN34
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明『延喜内膳式』に志摩国御厨所進物として玉貫御取夏鰒が見える。「古」は「籠」の音通。

■(5)「調鰒六斤三列長四尺五寸束一束」(清武雄二氏によると、「6斤(約4044g)の貢納量)

<ちなみに、「ムラの戸籍簿」データベース参照のこと>

安房国 - 「ムラの戸籍簿」データベース

なお、和名抄高山寺本「多介太」とある。

通説では、千葉県神岬町武田とするが、その場所を実地調査するに、海岸からも利根川からもはるかに離れた場所にある。再考の余地あり。

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AACVS15000110
木簡番号2246
本文安房国朝夷郡健田郷仲村里戸私部真鳥調鰒六斤三列長四尺五寸束一束養老六年十月
寸法(mm)461
23
厚さ5
型式番号031
出典平城宮2-2246(日本古代木簡選・城3-5下(57))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮造酒司地区
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所
発掘次数22N
遺構番号SD3035
地区名6AACVS15
内容分類荷札
国郡郷里安房国朝夷郡健田郷安房国朝夷郡健田郷仲村里〉
人名私部真鳥
和暦養老6年10月
西暦722(年), 10(月)
木簡説明安房国は養老二年五月~天平一三年一二月と天平宝字元年五月以降に置かれていた。鰒は小一八斤(大六斤)が正丁の輸貢量である。なお、鰒を列で数える例は藤原宮木簡にも見える(『藤原宮跡出土木簡概報』六〇)。

■研究文献情報


(6)耳放鰒

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AACVS15000174
木簡番号2290
本文上総国阿嶓郡鰒□〔調ヵ〕耳放二編三列→
寸法(mm)(164)
26
厚さ5
型式番号039
出典平城宮2-2290(日本古代木簡選・城3-5下(58))
文字説明 
形状下半部欠損。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮造酒司地区
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所
発掘次数22N
遺構番号SD3035
地区名6AACVS15
内容分類荷札
国郡郷里安房国安房郡上総国阿嶓郡
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明下半部欠損。調貢進札。上総国阿嶓(アハ)郡の名称は養老二年五月以前か、あるいは天平一三年一二月~天平宝字元年五月の間のことである。耳放鰒は加工の一種と思われる。『延喜主計式』では安房国にかぎって調物として、着耳鰒、放耳鰒を指定しているので、この地方の特殊な加工であったと考えられる。

■研究文献情報


(7)「着耳鰒、放耳鰒」

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFKB10000103
木簡番号0
本文・薄鰒卅四斤調物・寶亀□□〔四年ヵ〕料
寸法(mm)149
23
厚さ1
型式番号031
出典木研14-17頁-(2)(城26-20下(308))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪東二坊坊間路西側溝
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数223-13
遺構番号SD5021
地区名6AFFKB10
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦宝亀4年
西暦773(年)
木簡説明 


(7)「輸鰒調陸斤○/伍拾伍条∥○]



詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF11000128
木簡番号0
本文安房国安房郡片岡郷瀧辺里戸卜部黒麻呂輸鰒調陸斤○/伍拾伍条∥○天平七年十月
寸法(mm)300
29
厚さ7
型式番号031
出典城24-26上(248)
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数198B
遺構番号SD5300
地区名6AFFJF11
内容分類荷札
国郡郷里安房国安房郡片岡郷安房国安房郡片岡郷瀧辺里〉
人名卜部黒麻呂
和暦天平7年10月
西暦735(年), 10(月)
木簡説明 

■研究文献情報


(8)鰒鮓壱斗

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF13000102
木簡番号0
本文若狭国三方郡御贄鰒鮓壱斗
寸法(mm)178
30
厚さ4
型式番号032
出典城24-28下(284)
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数198B
遺構番号SD5300
地区名6AFFJF13
内容分類荷札
国郡郷里若狭国三方郡
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報

なお、「若狭国三方郡御贄鰒鮓壱斗」の贄は本来、天皇供御の食料であった。「大化改新詔」第四条にもある。服属儀礼の一つであろう。『延喜式』では、宮内省式・内膳式と区分して、贄には諸国所進御贄(内膳式では諸国貢進御贄)と、諸国例貢御贄の二つを記す。前者はその貢進時期により、節料・旬料・年料に分けた。一方、後者は内裏の贄殿に収納され、供御物とした。

若狭国遠敷郡青郷(里)は、東は高浜町青の付近、西は大浦半島の神野・日引・田井・河辺あたりであったらしい。

漁村であり、しかも後背地に日引遺跡・神野浦遺跡、そして近隣の音海遺跡・小黒飯遺跡など船岡式製塩土器を出土した奈良製塩遺跡が控えている。これらの製塩を活用して、水産物加工技術を導入しながら毎年の贄を製造したと考えてよい。

『福井県史』参照)