2025年4月2日水曜日

平城京の大路が混雑する理由は

 今津勝紀「税の貢進」『日本古代の交通・交流・情報』(1)所収(特に、74-75頁)に教わった点が、下記である。

それは地方から平城京へ上る貢納使たちの人数である。今津氏によると、当時の平城京を10万人(鬼頭清明説)だとすれば、

*たえず3000人から5000人

の地方から上京する一時的流入者が存在したと推定している。

これは着眼点の鋭い、すぐれた指摘である。


なお、今津氏の指摘を踏まえて追加すれば、

1,馬

2,荷車(荷駄)

3,俵

4,木簡類

など地方からの輸送用具も溢れていたと考えられる。

いずれにせよ今津氏の試論は今後の検証を俟つが、私見ではもう少し詳細に四度使などの実態を見れば、その数は増加すると考えている。。


2025年3月29日土曜日

讃岐の阿刀宿祢をスタートして「安都(雄足)」に関するエッセイ

 讃岐国西部の有力在地勢力であった佐伯直出身の空海の母方は、玄防や善疎らの高僧を輩出した阿刀宿祢である。

 そもそも阿刀氏の分布は讃岐に限らず大和・山城・摂津・和 泉・河内・讃岐・紀伊・越前に及んでいる。そのすべてが同族だと断定しがたいものの、『新撰姓氏録』や『先代旧事本紀』巻5 「天孫本紀」では、阿刀氏は饒速日命の子孫で、物部 (石上)氏の同族だという。

 『新撰姓氏録』 阿刀宿祢  石上同祖、 〔左京神別上〕 阿刀宿祢  石上朝臣同祖。饒速日命孫味鶴田命之後也 

〔山城国神別〕 阿刀連   同上 

〔山城国神別〕 阿刀連   饒速日命之後也  

〔摂津国神別〕 阿刀連   同上(采女臣同祖 〔和泉国神別〕 「天孫本紀」   (天照国照彦天火明櫛王饒速日尊)孫昧飯田命、阿刀連等。

  阿刀氏の本拠地は『和名抄』の河内国渋川郡跡部郷の地だと推定される。

しかも、次の記事に見る通り、

「従五位上上村主百済、改賜阿刀連。」(『続日本紀』慶雲元年2月乙亥<20日>条

とあり、「村主⁺百済」からも判別されるとおり、渡来系氏族である。

その名にレガシーがあるように、百済系渡来人であった可能性を認めるものの、その確証はない。

なお、この記事に「上村主」とあれば「下村主」も想定できるが、この点は後考を俟つ。


なお、「阿斗(桑市)」とか「安刀」とか、「安都」などで表記される「Ato」の語源に関する私案はない。

特に阿都雄足(造東大寺司主典)に関する考察は別に論ずるつもりである。


追伸)次の大柴氏の高論を紹介しておきたい。

大柴 清圓「 弘法大師の生誕地に関する一考察」『高野山大学密教文化研究所紀要』第36号、191-114頁


追伸)『「河内国渋川郡久宝寺村田畑植附帳」『新版八尾市史 近世史料編1』をみると、この一帯は稲作ではなく、木綿栽培であったと知る。そうであれば、古代はどのような農業であったのかと想定する。


追補)『延喜式』

 麻羽郷、大家郷、郡家郷、高階郷、安刀郷、山田郷、広瀬郷、余戸郷


とある「安刀郷」(所沢市山口か坂戸市北部)「安刀」(アト)と読むべきであるとすれば、ここにも阿刀氏が居住していたと考えても良いかもしない。


参考地図

前の園亮一「古代の川部」『』37ー50頁、特に39頁より転載

bunka55_4maenosono (1).pdf







<参考>

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAICJ66001567
木簡番号7411
本文□□□□□□〔八位上勲十一ヵ〕等下村主浄道○/〈〉∥
寸法(mm) 
 
厚さ 
型式番号091
出典平城宮5-7411(城4-12上(189))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮宮域東南隅地区
Heijō Palace (Palace Precincts, Southeast Corner Sector)
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数32補
遺構番号SD4100
地区名6AAICJ66
内容分類文書
国郡郷里 
人名下村主浄道
和暦 
西暦 
遺構の年代観765-770
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AAICJ66001567


URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD29000244
木簡番号4765
本文・家令下村主廣万呂・書吏河内画師屋万呂
寸法(mm)140
23
厚さ3
型式番号011
出典平城京3-4765(城24-19上(146))
文字説明 
形状上削り、下切り折り、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
Heijō Capital (Left Capital, Second Row, Second Ward, Fifth Block, Second Row Avenue, Moat-like Feature, Northern Part)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数204
遺構番号SD5300
地区名6AFFJD29
内容分類文書
国郡郷里 
人名下村主廣万呂・河内画師屋万呂
和暦 
西暦 
遺構の年代観733-738
木簡説明上削り、下切り折り。左右削り。従三位の家政機関の家令と書吏と考えられる。但し、藤原麻呂家の書吏は六人部諸人とみられ、誰の家政機関の職員かは不詳。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFFJD29000244

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD29000721
木簡番号4523
本文・黒鯛四隻直六文○菁三把直二文右常料\○□・□〔進ヵ〕上櫃一合□請○/天平八年九月十五日下村主大魚∥
寸法(mm)(210)
(29)
厚さ5
型式番号081
出典平城京3-4523(城29-30下(336)・城29-12下(58))
文字説明 
形状四片接続、上欠(折れ)、下削り、左二次的割り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
Heijō Capital (Left Capital, Second Row, Second Ward, Fifth Block, Second Row Avenue, Moat-like Feature, Northern Part)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数204
遺構番号SD5300
地区名6AFFJD29
内容分類文書
国郡郷里 
人名下村主大魚
和暦天平8年9月15日
西暦736(年), 9(月), 15(日)
遺構の年代観733-738
木簡説明上折れ、下削り。左二次的割り、右削り。下村主大魚は、東市の交易進上木簡に署名する例がある(『木簡概報三〇』五頁上段)。この木簡も東市からの交易進上木簡であろう。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFFJD29000721

■本文の語句分類




2025年3月27日木曜日

マゲ鹿ーー種子島の鹿

 種子島からの鹿皮がいつから太宰府に貢納されていたのかは不明である。


しかし天長元年の太政官符によると、種子島からの鹿皮100余領が貢納されていたとある(『類聚三代格』巻5、天長元年9月12日条)。

ここで特筆したいのは、種子島産のマゲ鹿の鹿皮と日本鹿のそれとが色合いなどを含めて異なる事である。

これまでの諸研究を見ると、十派一絡げに安易に考えていた節がある。


下記の論文を一読するだけで、その差を知るべきである。


ーーーーーーーー


マゲシカCervus nippon mageshimaeの遺伝的独自性についての再検討

ジャーナル オープンアクセス HTML

2023 年 28 巻 2 号 p. 425-436


2025年3月23日日曜日

大宰少弐補任リスト(右田文美作成)

 右田文美氏の労作に、

*「大宰少弐考:附大宰少弐補任俵」

がある。文献で確認できる慶雲元年(704)から文治2年(1186)までに補任された大宰少弐143名のリストアップである。管見にして、これ以上の人名を追加する資料を持たない。

まことに素晴らしい力編である。

田中篤子氏の労作

*「大宰帥・大宰大弐補任表」『東京女子大学・史論』26・27集、昭和48年

と併読することで概略を理解できる。



2025年3月11日火曜日

武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人が「金」姓

 「続日本紀」天平5年(733)6月条に

丁酉。武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人。依請爲金姓。」

の記事がある。この趣旨は「武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女53人を、要請に依りて金の姓を許した」という内容である。

この記事に注目する理由は、新羅人徳師等男女53人が姓を有していなかったことであり、その創氏にあたり朝鮮半島の王族名である「金」氏を自称したことである。

 つまり新羅人徳師等男女にとって自ら朝鮮半島に出自を持つ血縁集団(父系もしくは母系、あるいは双系)であることを対外的に標榜することが何らかの権益を確保し、さらには権利書であったのではないか。逆な見方をすれば、この時点で新羅人徳師らは経済的上昇を遂げて、郡衙・国衙を経て中央にまで要請が可能となる社会的認知度までも有するようになっていたと言えよう。

ここでは、「金氏」姓が日本人式姓ではなく、わざわざ朝鮮半島由来の新羅式姓であることによって、実感として連帯を意識し、共通の権益を獲得したと理解しておきたい。

なお、徳師ら53人が始祖からの共通の出自の観念を持ち、同族の構成員を記述的に網羅した家計記録の存在までの推定は史料的な限界ゆえに控えて、後日の課題としたい。


2025年3月3日月曜日

館野和己氏・今津勝紀氏・荒井秀規氏のご教示「調邸」に感謝

 長年、探し求めていた都の「調邸」、私の拙劣な表現で言えば、全国から貢納された品々をいったん納入する都の仮保管場所、あるいは調を運搬してきた者たちの宿舎(休憩所)、さらには政府の倉庫に納入・検品されるまでの間のモノ・ヒト・カネなどの情報収集場所の機能を持つ建築物が存在していたはずだと考えていた。さらには、毎年定期的に11月1日(畿内は10月1日)までに上京し、翌年の3月頃まで都に滞在した四度使(朝集使・計帳使・正税帳使・貢調使)の中で、京に自宅を有する国司のように都から地方へと派遣される者であれば問題はないだろうが、朝集使など四度使には雑掌2人(『駿河国正税帳』天平8年条の丈部大嶋 半布臣広麻呂など、『類聚三代格』巻6、公糧事など)が同行していたし、さらには伴人がいたはずである。彼ら地方在地の者たちにとって都での仮偶を要しただろう。

 眼が節穴の私には発見できなかった資料を、荒井氏が発掘している慧眼に改めて驚く。

「律令制下の交易と交通」『日本古代の交通・交流・情報』第2巻、吉川弘文堂、2016年、208頁

1)相模国調邸

2)諸国調宿所

等の語句を発掘している。長年にわたり史料群に対して眼光紙背に徹する態度で取り組んできた荒井氏の労を多としたい。

私の念頭には、朝鮮王朝時代において「京在所」や「留郷所」などの存在を知っていただけに誰が見ても古代日本においても同種の建築物がなくてはならないと言う予想をしていた。


ここまで書いてきて、ふと今津勝紀「税の貢進」『日本古代の交通・交流・情報』(1)所収(特に、75-76頁)を眺めていたところ、今津氏も同様な指摘をなさっている。しかも今津氏の導きで、そもそも最初の指摘は館野和己氏であったという

館野和己「相模国調邸と東大寺領東市荘」『日本古代の交通と社会』塙書房、1998年

→未見

だとも教わった。特記して感謝したい。




2025年2月23日日曜日

讃岐国国司一覧(2025年3月23日版)

この一覧表の目的は、律令時代における官僚選考の理由を解明する事にある。

まずは各国司の経歴を調査する目的は、なぜこの人物でなくてはならなかったかにある。

結論を先取りすれば、下記の調査で少なくとも暫定的な見通しとして、

尾張守(介)⇒讃岐守

という人事任用ルートは見いだせたと考えている。


 *大伴宿祢道足 和銅元年3月13日~和銅6年5月12日

→参考記事  大伴道足は、壬申の乱で天武方で活躍した大伴馬来田の子。生年未詳


官歴

続日本紀』による。

*大神朝臣興志 和銅6年8月26日

→「丁巳。以正五位下大伴宿祢道足。爲彈正尹。從四位下大石王爲攝津大夫。從五位下榎井朝臣廣國爲參河守。從五位下大神朝臣興志爲讃岐守。從五位下道君首名爲筑後守。」(『続日本紀』)


*平群豊麻呂 天平3年4月27日

夏四月乙巳。正五位下平群朝臣豊麻呂為讃岐守。」『続日本紀』天平3年(731)4月乙巳

→→養老7年(723年) 正月10日:従五位下

  神亀4年(727年) 正月27日:従五位上

→→→このころに、天平7年 (735) の「弘福寺領讃岐国山田郡田図」がらる。


*小治田広千 天平15年6月30日

→小治田広耳とも書く

→→万葉集

獨居而 物念夕尓 霍公鳥 従此間鳴渡 心四有良思(1476番歌)

独り居てもの思ふ夕に霍公鳥此聞ゆ鳴き渡る心しあるらし

霍公鳥 鳴峯乃上能 宇乃花之 ■事有哉 君之不来益(1501番歌)

霍公鳥鳴く峯の上の卯の花の厭きことあれや君が来まさぬ

→→小治田は小墾田とも書く。大和国高市郡の小墾田地域を本拠地とした氏族。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。

→→→天平5年:外従五位下

   天平11年:序五位下

   天平13年:尾張守

   天平15年:讃岐守



*紀宇美   天平17年9月4日

紀氏の系譜に関しては、木本好信氏の研究が詳しい。

「紀飯麻呂と播諸兄政権」『甲子関短期大学紀要』第22号(平成十五年)、92-93頁

それによると、研究者によって紀宇美の系譜は微妙に異なる。

①林陸朗悦

大人ー麻呂ー古麻呂ー飯麻呂

  ↥ー麻路ー広庭

  ↥ー宇美ー広純

  ↥ー猿取ー船守ー梶長

  ↥ー男人ー家守

  ↥ー宿奈麻呂ー古佐美

②中村修也説

大人ー麻呂ー宇美ー広純

  ↥-男人ー家守

  ↥ー宿麻呂ー古麻呂

  ↥ー木津魚ー百継

③戸田秀典説

大人ーー国益ー諸人

  ↥ーー麻呂ー宇美ー広純

       ↥ー男人ー家守

       ↥ー麻路ー広名ー真人

           ↥ー広庭

   ↥ーー古麻呂ー飯麻呂ー古佐美ー広浜         

         ↥ー木津魚ー百継

         ↥ー猿取ー船守ー梶長

として、紀宇美の系図は一様ではない。

→紀宇美の子が吉継。その吉継の墓誌は以下の通りである。

 紀吉継の墓誌は、妙見寺裏山から江戸時代に発見されたと伝えられる。瓦磚で長さ二五・〇センチ、幅一五・六センチ、厚さ六センチ、同形同厚の二枚組みで、一板を蓋としたものである(545)。身の一枚に縦線をひき四行に銘文が刻まれ「維延暦三年歳次甲子朔癸酉丁酉参議従四位下陸奥国按察使兼守鎮守副将軍勲四等紀氏諱広純之女吉継墓志」とある。延暦三年(七八四)正月朔は癸酉に当たるから、丁酉は正月二五日にあたるが、この日死去したのか、墓を造ったのか、銘文を書いたのか不明である。紀広純は大納言兼中務卿正三位紀麻呂の孫で、左衛士督従四位下紀宇美の子であり、天平宝字二年(七五八)正月正六位上で北陸道問民苦使、同七年正月従五位下に叙され、大宰員外少弐となり、天平神護元年(七六五)二月、薩摩守に左遷された(仲麻呂側とみられたためか)。宝亀二年(七七一)閏三月左少弁、同二年五月美濃介、同四年正月従五位上、同五年三月新羅使金三玄に来朝の理由究明のため太宰府へ派遣され、時に河内守であった。同七月鎮守副将軍を兼ね、同六年九月陸奥介兼副将軍、一一月蝦夷追討の功により正五位下勲五等、同八年五月陸奥守兼按察使となった。同一二月陸奥鎮守将軍として、志波村の蝦夷に敗北した旨を報じたが、朝廷は従四位下勲四等を授けた。同九年六月にも従四位下勲四等を授けたとあるのは、『続紀』編纂時に混乱したのであろう。同一一年二月参議となり、三月俘軍をひきいて前進しようとし、逆に俘領の伊治公呰麻呂に殺された。『公卿補任』によれば、宝亀一一年二月一日に従四位下を授けられ、同日参議に任ぜられ、三月二四日死去とある。同書所引の「弁官補任」には宝亀二年閏三月に右少弁(一本では右中弁)に任ぜられたとし、「受領補任」には宝亀八年五月按察使をもって常陸守を兼任したとある。」

⇒この記事の中の「紀広純は大納言兼中務卿正三位紀麻呂の孫」は存疑。

545 紀吉継墓誌

安宿王   天平勝宝8年11月ごろ(万葉集巻20)~天平勝宝8年12月30日

→別稿に詳述

→→「神亀6(729)年2月、長屋王が 誣ぶ 告により罪を負い自尽した。その際、吉備内親王と彼女 が生んだ三人の王子(膳夫王・葛城王・鉤取王)と石川夫 人の生んだ桑田王らが自死させられた。ところが、『続日本紀』天平宝字7年10月17日の藤原弟貞(山背王)薨伝に、   

「礼部卿従三位藤原朝臣弟貞薨。弟貞者平城朝左大 臣正二位長屋王子也。天平元年長屋王有罪自尽。其男 従四位下膳夫王。旡位桑田王。葛木王。鈎取王亦皆自経。 時安宿王。黄文王。山背王。並女教勝。復合従坐。 以藤原太政之女所生。特賜不死。勝宝八歳。安宿。 黄文謀反。山背王陰其変。高野天皇嘉之。賜 姓藤原。名曰弟貞。」

とあるように、安 宿王・黄文王・山背王の三兄弟は、長屋 王と藤原不比等の娘長 娥子との間に生まれたことを理由に 死罪を免れた。 長屋王の変から6年後の天平7(735)年、大宰府を中 心に天然痘が流行し、またたく間に畿内にも広まった。そ して、同9年4月から8月にかけて政権の中枢にあった藤 原四子が相次いで命を落とした。人々はこれを長屋王の怨 霊によるものだと噂する。

政府は怨霊退散を願い、長屋王 の遺児を対象に叙位をおこなった。  安宿王は、天平9(737)年9月に従五位下に初叙せら れ、翌月に従四位上に越階昇叙。その後、天平10年閏7 月玄蕃頭(従五位上相当官)、同18(746)年4月治部卿(正 四位下相当官)など京師の諸官を歴任した。この間、同 12(740)年11月に黄文王と共に行幸中の伊勢赤坂頓宮で 従四位上に昇叙されるなど順調に昇進していった。  天平勝宝元(749)年に聖武天皇が譲位して阿倍内親王 が即位すると(孝謙天皇)、仲麻呂は大納言に昇進。次いで、 光明皇后のために設けられた紫微中台長官(紫微令)を兼 ねた。こうして、光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権 と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄や右大臣藤原豊成に対抗出来る権限を握った」『島根ミュージアム協議会共同研究紀要』第4号、対平成26年、2-3頁

⇒『続日本紀』「⇒『続日本紀』4月癸巳条。以正五位下大倭宿祢小東人爲參河守。從五位下阿倍朝臣小嶋爲駿河守。從五位上大伴宿祢犬養爲美濃守。從五位下平群朝臣人足爲越後守。從四位下巨勢朝臣堺麻呂爲丹波守。正四位下安宿王爲播磨守。從五位下安曇宿祢大足爲安藝守。從五位下石津王爲紀伊守。外從五位下清原連淨道爲筑後守。


*奈賀王   天平宝字元年(757)7月12日

→「戊午,以從五位下-小野朝臣-田守,為刑部少輔。正六位上-藤原朝臣-乙繩,為日向員外掾。從五位下-奈賀王,為讚岐守。」(『続日本紀』)

→当時の讃岐国目は「大津上万呂見」

→→天平宝字4年正月 21 日,馬史夷麻呂が南海道巡察使に任命された


*大伴犬養  天平宝字6年(762)10月9日

→経歴

 未詳        播磨小掾 従七位上


 天平10年(738) 4月乙卯の条  式部大丞 

→『続日本紀』天平10年

夏四月乙夘。詔。爲令國家隆平宜令京畿内七道諸國三日内轉讀最勝王經。

庚申。從五位下佐伯宿祢淨麻呂爲左衛士督。從五藤原朝臣廣嗣爲犬養徳守。式部少輔如故五位下百濟王孝忠爲遠江守。外從五位下佐伯宿祢常人爲丹波守。從五位下大伴宿祢兄麻呂爲美作守。外從五位下柿本朝臣濱名爲備前守。外從五位下大宅朝臣君子爲筑前守。外從五位下田中朝臣三上爲肥後守。外從五位下陽侯史眞身爲豊後守」

 天平12年(740)正月:  遣渤海大使 外従五位下

→『続日本紀』「(春正月)庚子。天皇御中宮。授從四位下塩燒王從四位上。无位奈良王。守部王並從四位下。正五位下多治比眞人廣足正五位上。從五位上紀朝臣麻路。石川朝臣加美。藤原朝臣仲麻呂並正五位下。從五位下石川朝臣年足。佐伯宿祢淨麻呂並從五位上。正六位上藤原朝臣巨勢麻呂。藤原朝臣八束。安倍朝臣嶋麻呂。多治比眞人土作並從五位下。正六位上大伴宿祢三中。宗形朝臣赤麻呂。紀朝臣可比佐。大伴宿祢犬養。車持朝臣國人並外從五位下。」又以外從五位下大伴宿祢犬養爲遣渤海大使

→→『続日本紀』「冬十月戊午。遣渤海郡使外從五位下大伴宿祢犬養等來歸。」


天平18年(746)4月癸卯条  従五位下

→『続日本紀』4月癸卯条「外從五位下大伴宿祢麻呂。田口朝臣三田次。爲奈眞人馬養。粟田朝臣堅石。當麻眞人廣名。紀朝臣可比佐。大伴宿祢三中。大伴宿祢名負。大伴宿祢百世。路眞人宮守。引田朝臣虫麻呂。下毛野朝臣稻麻呂。太朝臣徳足。路眞人野上。車持朝臣國人。高橋朝臣國足。鴨朝臣石角。穗積朝臣老人。布勢朝臣多祢。大伴宿祢犬養笠朝臣蓑麻呂。小野朝臣東人。小野朝臣綱手。紀朝臣必登。鴨朝臣角足。」


天平18年(746)11月壬午

→『続日本紀』十一月壬午条「。以春宮員外亮正五位上石川朝臣年足爲左中弁。從五位下笠朝臣蓑麻呂爲中務少輔。從五位上巨勢朝臣堺麻呂爲式部大輔。從五位下大伴宿祢犬養爲少輔。從四位下石川朝臣加美爲兵部卿。


天平19年(747)  少納言 大伴宿祢犬養

→『続日本紀』「十二月乙巳。以從五位下大伴宿祢犬養爲少納言。從五位上當麻眞人鏡麻呂爲民部大輔。」

  

 天平勝宝元年 (749) 山背守  従五位上

→『続日本紀』7月七月甲午条

「既而授正四位上紀朝臣麻路從三位。從五位下久世王。伊香王並從五位上。正四位下多治比眞人廣足正四位上。從四位下石川朝臣年足。紀朝臣飯麻呂。吉備朝臣眞備並從四位上。正五位上巨勢朝臣堺麻呂。背奈王福信並從四位下。正五位下多治比眞人國人正五位上。從五位上佐伯宿祢毛人。鴨朝臣角足並正五位下。從五位下大伴宿祢犬養。藤原朝臣千尋並從五位上。正六位上御方大野。鴨朝臣虫麻呂並從五位下。」以正三位藤原朝臣仲麻呂爲大納言。從三位石上朝臣乙麻呂。紀朝臣麻呂。正四位上多治比眞人廣足並爲中納言。正四位下大伴宿祢兄麻呂。從四位上橘宿祢奈良麻呂。從四位下藤原朝臣清河。並爲參議。」


天平勝宝元年8月辛未条

→『続日本紀』「辛未。以從五位下大原眞人麻呂。石川朝臣豊人。並爲少納言。從五位下大伴宿祢古麻呂爲左少弁。大納言正三位藤原朝臣仲麻呂爲兼紫微令。參議正四位下大伴宿祢兄麻呂。式部卿從四位上石川朝臣年足並爲兼大弼。從四位下百濟王孝忠。式部大輔從四位下巨勢朝臣堺麻呂。中衛少將從四位下背奈王福信並爲兼少弼。正五位上阿倍朝臣虫麻呂。伊豫守正五位下佐伯宿祢毛人。左兵衛率正五位下鴨朝臣角足。從五位下多治比眞人土作爲兼大忠。外從五位上出雲臣屋麻呂。衛門員外佐外從五位下中臣丸連張弓。吉田連兄人。葛木連戸主並爲少忠。從五位下藤原朝臣繩麻呂爲侍從。從五位下御方大野爲圖書頭。從五位下別公廣麻呂爲陰陽頭。從三位三原王爲中務卿。從四位上安宿王爲大輔。正五位上葛井連廣成。從五位下藤原朝臣眞從並爲少輔。中納言從三位紀朝臣麻呂爲兼式部卿。從五位下多治比眞人犢養爲少輔。神祇大副從五位上中臣朝臣益人爲兼民部大輔。從五位下阿倍朝臣鷹養爲主計頭。從五位下紀朝臣廣名爲主税頭。正五位下大伴宿祢稻君爲兵部大輔。從五位上大伴宿祢犬養爲山背守。從五位上石川朝臣名人爲上総守。外從五位下茨田宿祢枚麻呂爲美作守。」


 天平勝宝2年(750)  播磨守

→『続日本紀』4月庚子条「以正四位下多治比眞人占部爲攝津大夫。從五位下紀朝臣小楫爲山背守。從四位下百濟王孝忠爲出雲守。從五位下内藏忌寸黒人爲長門守。從五位上大伴宿祢犬養爲播磨守。正五位上多治比眞人國人。藤原朝臣乙麻呂並爲大宰少貳。」

→昇進ルート 山背守⇒播磨守か?

 天平勝宝5年(753) 美濃守

⇒『続日本紀』4月「癸巳。以正五位下大倭宿祢小東人爲參河守。從五位下阿倍朝臣小嶋爲駿河守。從五位上大伴宿祢犬養爲美濃守。從五位下平群朝臣人足爲越後守。從四位下巨勢朝臣堺麻呂爲丹波守。正四位下安宿王爲播磨守。從五位下安曇宿祢大足爲安藝守。從五位下石津王爲紀伊守。外從五位下清原連淨道爲筑後守。


天平宝字元年5月

→『続日本紀』5月丁卯条

授從二位藤原朝臣豊成正二位。正四位下塩燒王。從四位上池田王並正四位上。從四位上諱。從四位上船王並正四位下。從四位下山背王從四位上。從五位上久勢王正五位下。從五位下厚見王。山村王並從五位上。无位船井王。掃守王。尾張王。奈賀王並從五位下。從四位上文室眞人大市。阿倍朝臣沙弥麻呂。高麗朝臣福信並正四位下。從四位下巨勢朝臣堺麻呂從四位上。正五位上佐伯宿祢毛人。佐伯宿祢今毛人。正五位下佐味朝臣虫麻呂並從四位下。正五位下大伴宿祢稻公。大倭宿祢小東人。賀茂朝臣角足並正五位上。從五位上藤原朝臣千尋。百濟王元忠。阿倍朝臣嶋麻呂。粟田朝臣奈勢麻呂。大伴宿祢犬養。中臣朝臣清麻呂。石川朝臣名人。勤臣東人。葛木宿祢戸主並正五位下。從五位下日下部宿祢子麻呂。下毛野朝臣稻麻呂。縣犬養宿祢小山守。小野朝臣東人。多治比眞人土作。藤原朝臣宿奈麻呂。藤原朝臣魚名。石上朝臣宅嗣。大倭忌寸東人。百濟朝臣足人。播美朝臣奧人並從五位上。外從五位下葛井連諸會。日置造眞夘。中臣丸連張弓。上毛野君廣濱。廣野連君足。正六位上忌部宿祢呰麻呂。三國眞人百足。多治比眞人犬養。紀朝臣僧麻呂。大宅朝臣人成。中臣朝臣麻呂。高橋朝臣子老。阿倍朝臣御縣。榎井朝臣小祖父。賀茂朝臣塩管。大原眞人今木。巨勢朝臣度守。石川朝臣君成。田口朝臣御直。賀茂朝臣淨名。藤原朝臣執弓。池田朝臣足繼。田中朝臣多太麻呂。大伴宿祢不破麻呂。石川朝臣人公。无位文室眞人波多麻呂並從五位下。正六位上食朝臣三田次。川原連凡。益田繩手。大藏忌寸家主。土師宿祢犬養。土師宿祢弟勝。河内畫師祖父麻呂。白鳥村主頭麻呂。上毛野君眞人並外從五位下。


 天平宝字2年(758) 右衛士府督


 天平宝字3年(759) 左中弁・右中弁  従四位下

⇒『続日本紀』天平宝字3年(759)5月壬午条

壬午。以正五位下大伴宿祢犬養爲左中弁從五位下布勢朝臣人主爲右少弁五位下阿部朝臣毛人爲文部少輔。從五位下大伴宿祢御依爲仁部少輔。從五位下石川朝臣人成爲節部少輔。外從五位下馬史夷麻呂爲典藥頭。正五位上大和宿祢長岡爲左京大夫。從五位下佐味朝臣宮守爲亮。正五位上粟田朝臣奈勢麻呂爲右京大夫。從五位下阿部朝臣三縣爲亮。外從五位下山邊縣主小笠爲大和介。從五位上當麻眞人廣名爲河内介。從五位下大野朝臣廣主爲和泉守。從五位上石上朝臣宅嗣爲參河守。從五位下巨曾倍朝臣難波麻呂爲近江介。從五位下藤原惠美朝臣久須麻呂爲美濃守。從四位上藤原朝臣巨勢麻呂爲播磨守。從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲美作介。從五位下阿倍朝臣繼人爲備前介。外從五位下茨田宿祢牧野爲備中介。從五位下穗積朝臣小東人爲周防守。從五位上山村王爲紀伊守。從五位下縣犬養宿祢吉男爲肥前守」

⇒⇒天平宝字3年7月丁卯条 従四位下

秋七月丁夘。勅。准令。彈正尹者從四位上官。官位已輕。人豈能畏。自今以後。改爲從三位官。」以從四位下阿倍朝臣嶋麻呂爲左大弁。從四位下大伴宿祢犬養爲右大弁。從五位上石川朝臣豊成爲左中弁。從四位下佐味朝臣虫麻呂爲中宮大夫。備前守如故。從五位下佐佐貴山君親人爲亮。從五位下橘宿祢綿裳爲左大舍人助。從四位下岡眞人和氣爲内匠頭。從四位下御方王爲木工頭。三品池田親王爲糺政尹。外從五位下食朝臣三田次爲西市正。從五位下阿倍朝臣許智爲山背介。外從五位下陽侯史玲珎爲伊賀守。鎭國衛次將從五位下田中朝臣多太麻呂爲兼上総員外介。從五位下三嶋眞人廬原爲武藏介。從三位百濟王敬福爲伊豫守。」

⇒天平宝字5年(758)6月庚戌

從三位船王。池田王並授三品。正四位上諱從三位。從五位下御方王。御使王。无位林王。笠王。宗形王並從四位下。從五位下河内王從五位上。正四位下紀朝臣飯麻呂。藤原朝臣眞楯並正四位上。從四位上藤原朝臣巨勢麻呂正四位下。從四位下藤原朝臣御楯從四位上。正五位下阿倍朝臣嶋麻呂。大伴宿祢犬養。石川朝臣名人。正六位上岡眞人和氣。從五位下仲眞人石伴。從五位上藤原惠美朝臣眞光。從五位下藤原惠美朝臣久須麻呂並從四位下。正五位下中臣朝臣清麻呂。從五位上藤原朝臣魚名並正五位上。從五位下藤原惠美朝臣朝狩正五位下。從五位下都努朝臣道守。阿倍朝臣毛人。大伴宿祢御依。豊野眞人出雲並從五位上。正六位上三嶋眞人廬原。阿倍朝臣許智。藤原朝臣雄田麻呂。藤原惠美朝臣小弓麻呂。藤原惠美朝臣薩雄。橘宿祢綿裳並從五位下。從四位下室女王。飛鳥田女王並四品。從五位下弓削女王。无位川邊女王。加豆良女王。從五位下藤原惠美朝臣兒從並從四位下。」以從四位上藤原朝臣御楯任參議。」


 天平宝字6年(762) 讃岐守

⇒「甲寅。讃岐守從四位下大伴宿祢犬養卒」


→→奈賀王讃岐守在任時

  介:池原 禾守任

  目:大津上萬呂

→→→→『続日本紀』「壬戌。中納言正三位大伴宿祢牛養薨。大徳咋子連孫。贈大錦中小吹負之男」とあるように、大伴氏には「牛養」とか「犬養」などの名あり。


*百済王敬福  天平宝字7年1月9日

→別稿に記す

→→経歴

⇒「秋七月丁夘。勅。准令。彈正尹者從四位上官。官位已輕。人豈能畏。自今以後。改爲從三位官。」以從四位下阿倍朝臣嶋麻呂爲左大弁。從四位下大伴宿祢犬養爲右大弁。從五位上石川朝臣豊成爲左中弁。從四位下佐味朝臣虫麻呂爲中宮大夫。備前守如故。從五位下佐佐貴山君親人爲亮。從五位下橘宿祢綿裳爲左大舍人助。從四位下岡眞人和氣爲内匠頭。從四位下御方王爲木工頭。三品池田親王爲糺政尹。外從五位下食朝臣三田次爲西市正。從五位下阿倍朝臣許智爲山背介。外從五位下陽侯史玲珎爲伊賀守。鎭國衛次將從五位下田中朝臣多太麻呂爲兼上総員外介。從五位下三嶋眞人廬原爲武藏介。從三位百濟王敬福爲伊豫守。



*多治比土作  神護景雲2年(768)2月18日~神護景雲2年7月1日

→天平15年(743)3月に来日した新羅使を迎えた検校新羅客使が多治比土作であった。

→→多治比家は、霊亀2年(716)に多治比真人県守が遣唐押使、天平4年(732)に多治比真人広成が大唐大使(県守の弟)、宝亀9年に多治比浜成が送唐客使判官、承和3年に多治比文雄が船頭判官、承和6年に多治比高主が準録事にそれぞれ任命された遣唐使を輩出した家柄であった。なお『公卿補任』によると遣唐執節使粟田真人は多治比真人嶋の子だと記す。

→→→王白壁王擁立に際して、朝廷では従一位の永手、正二位の真吉備、従二位の弓削浄人、従三位は藤原 宿奈麻呂・石上宅嗣・藤原蔵下麻呂の策定会議出席者、藤原魚名・藤原縄麻呂・石川豊成・文室大 市・大中臣清麻呂らの議政官と高麗福信、正四位上は道嶋道足、従四位上は佐伯今毛人・藤原雄田麻 呂・坂上苅田麻呂・多治比土作、従四位下は藤原楓麻呂・藤原家依・安倍毛人・吉備泉・藤原継縄・ 紀益麻呂・大伴伯麻呂・百済王理伯ら二十五人ほどが政治の指導者であった

*藤原朝臣楓麻呂  宝亀2年(771)5月14日~宝亀3年4月19日

→専論:木本好信「藤原楓麻呂について-藤原北家官人の考察 7」『甲子園短期大学紀要』34号、2016年、23-37頁

にほぼ論は尽くしてある。

→藤原房前を始祖とする藤原北家の二子の永手・三子真楯(八束)・五子魚名、六子御楯(千尋)に続き、 楓麻呂が七子である。なお、楓麻呂の兄である御楯は藤原仲麻呂の娘婿。

→藤原楓麻呂薨伝は『続日本紀』宝亀七年(776)六月己巳(13日)条

『続日本紀』

《天平宝字四年(七六〇)二月辛亥【二十】》○辛亥。以従四位下笠王。為左大舍人頭。従五位下豊野真人尾張為内蔵頭。在唐大使正四位下藤原朝臣河清為文部卿。従五位下高円朝臣広成為少輔。従五位下石川朝臣人成為仁部少輔。従五位下巨勢朝臣広足為節部少輔。従五位上当麻真人広名為遠江員外介。従五位下藤原朝臣楓麻呂為但馬介。是日。渤海使高南申等帰蕃。


→→『続日本紀』 神護景雲四年(宝亀元・770)8月4日

称徳天皇が逝去し、その即日に左大臣藤原永手・右大臣 吉備真備・参議藤原良継・藤原縄麻呂・石上宅嗣、近衛 大将藤原蔵下麻呂の六人の合議で光仁天皇が即位する。そして神護景雲4年8月17日に称徳天皇が埋葬されるや、光仁天皇は道鏡を下野国に追放する一方で、阿倍東人を中務大輔に、藤原楓麻呂を伊勢守、藤原雄田麻呂(百川)を越前守に任命した。これによって判明するように、楓麻呂は光仁天皇の信任篤い人物であった。



*藤原朝臣雄依   宝亀9年2月4日~宝亀11年2月9日





→→藤原男依は藤原北家、藤原永手の次男




壱志濃王        延暦元年閏1月17日~延暦元年2月14日

壱志濃王薨伝 『日本後紀』延暦24年(805)11月

経歴


→→→ 壱志濃王の系図


(出典:
天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人 | SYNCHRONOUS シンクロナ)⇒本ブログでは系図を提示できないので、代替品を借用したことを了とされたい。

→→→→「壱志濃王」に類似する名称は「壱志姫王」などがある。


→→→→ 桓武天皇の従兄弟であったがゆえに、壱志濃王と神王が選任された。光仁天皇即位直後、志貴親王の孫にあたる壱志濃王は、神王と共に特別な待遇をうけた。まず従五位下が蔭叙され、次に従四位下に叙せられた2王のみが桓武朝でも生存していただけに、それぞれ右大臣従二位、大納言正三位に任ぜられた。

①井上内親王の改葬(『続日本紀』宝亀九年正月丁卯条)、

坂合部内親王逝去時に、「監護喪事」(『続日本紀』宝亀九年五月癸酉条)

「三品坂合部内親王莞。遣従四位下壱志濃王等監護喪事。所須並官給」

三品-薭田親王の逝去(『続日本紀』天応元年12月辛丑条

「薨。遣從四位上-壱志濃王,從四位下-紀朝臣-古佐美、石川朝臣-垣守等,監護喪事。親王,天宗高紹天皇之第三皇子也。薨時,年卅一」。  

④光仁天皇改葬のための山陵候補地の点定(延暦元年八月己未条)

己未,遣治部卿-從四位上-壱志濃王,左中辨-從四位下-紀朝臣-古佐美,治部大輔-從五位上-藤原朝臣-黑麻呂,主稅頭-從五位下-榮井宿禰-道形,陰陽頭-從五位下-紀朝臣-本,大外記-外從五位下-朝原忌寸-道永等,六位已下解陰陽者合一十三人於大和國,行相山陵之地,為改葬天宗高紹天皇也。

⑤ 早良廃太子を告げるために田原山陵に派遣(延暦4年十月庚午条)、

庚午,遣,中納言-正三位-藤原朝臣-小黑麻呂,大膳大夫-從五位上-笠王,於山科山陵。天智天皇陵。治部卿-從四位上-壹志濃王,散位-從五位下-紀朝臣-馬守,於田原山陵。光仁天皇陵。中務大輔-正五位上-當麻王,中衛中將-從四位下-紀朝臣-古佐美,於後佐保山陵。聖武天皇陵。桓武、早良者,皆天智天皇系。聖武者,天武天皇系。二者系譜頗遠。以告廢皇太子之狀。


⑥藤原旅子の薨去時の「監護喪事」(延暦7年5月辛亥条)

辛亥,夫人-從三位-藤原朝臣-旅子,薨。詔,遣中納言-正三位兼中務卿-藤原朝臣-小黑麻呂,參議-治部卿-正四位下-壹志濃王等,監護喪事。又遣,中納言-從三位-兼兵部卿-皇后宮大夫-石川朝臣-名足,參議-左大辨-正四位下-兼春宮大夫-中衛中將-紀朝臣-古佐美,就第宣詔。贈妃,并正一位。妃,贈右大臣-從二位-藤原朝臣-百川之女也。延曆初,納於後宮,尋授從三位。五年,進為夫人。生大伴親王。薨時,年卅


⑦桓武天皇の生母である高野新笠墓の山作司(延暦8年12月29日条)

葬司…藤原継縄(従二位大納言)、神王(正四位上参議)、当麻王(正五 位上備前守)、気多王(従五位上散位)、広上王(従五位下内礼正)、紀古 佐美(正四位下参議左大弁)、石上家成(従四位下宮内卿)、藤原菅継(従 四位下右京大夫)、文室与企(正五位下右中弁)、藤原黒麻呂(従五位上治 部大輔)、桑原足床(同散位)、紀兄原(従五位下出雲守)、息長浄継(外 従五位下雅楽助)、中臣栗原子公(同大炊助) 山作司…藤原小黒麻呂(正三位中納言)、壱志濃王(正四位下参議)、小倉 王(従五位上阿波守)、大庭王(従五位下散位)、藤原真友(正五位下)、 文室忍坂麻呂(従五位上因幡守)、文室久賀麻呂(同但馬介)、阿倍弟当(同 左少弁)、文室八嶋(従五位下弾正弼) 養民司…多治比賀智(従五位下信濃介)、林浦海(外従五位下安芸介) 作路司…巨勢嶋人(従五位下左衛士佐)、丹比真浄(同丹波介)」


⑧桓武天皇の皇后藤原乙牟婁墓の山作司(延暦9年閏3月11日条)

「葬司…藤原継縄(従二位右大臣)、神王(正四位上参議)、当麻王(従四 位下備前守)、気多王(従五位上散位)、広上王(従五位下内礼正)、紀古 佐美(正四位上参議左大弁)、石上家成(従四位下)、藤原雄友(同参議)、 藤原内麻呂(同内蔵頭)、文室那保企(正五位下大宰大弐)、藤原黒麻呂(従 五位上駿河守)、桑原足床(同散位)、阿倍広津麻呂(同)、高篠広浪(外 従五位下木工助)、中臣栗原子公(同大炊助) 山作司…藤原小黒麻呂(正三位大納言)、壱志濃王(正四位下参議)、大庭 王(従五位下散位)、藤原菅継(従四位下左京大夫陰陽頭)、文室高嶋(同)、 文室八多麻呂(正五位下雅楽頭)、藤原真友(同散位)、文室八嶋(従五位 下伯耆守)、藤原真鷲(同右少弁) 養民司…多治比賀智(従五位下信濃介ヵ)、林浦海(外従五位下安芸介) 作路司…巨勢嶋人(従五位下山背守)、丹比真浄(同丹波介)

→この時の参議の中で、右大臣藤原継縄、大納言藤原小黒麻呂、参議神王・紀古佐美・ 藤原雄友・壱志濃王ら六人の議政官が参加している。

⑨平安遷都を賀茂大神と伊勢神宮に報告(『日本紀略』 延暦十二年二月辛亥・三月戊子条)

などによって、桓武天皇の信任が厚かったことを知るだろう。




*内蔵宿祢(忌寸)全成延暦6年2月5日


→概略

ところで、内蔵全成は経歴や陸奥守への起用からみて、桓武天皇 の勅で入京した副使だった可能性が高い。彼は天平勝宝六・七年 (七五四・七五五)に大学少属、天平宝字三年(七五九)には高麗に遣いした藤原河清の送迎使を勤めたあと、宝亀三年(七七二)に大外記と して詔書の考勘や太政官奏文の勘造にあたり、宝亀五・十年には新羅使 ) 、来朝の由を問う使となっている 。学識があり、交渉に長じた文官で、宝亀五年の新羅使来朝では四ヶ月後に鎮守副将軍となる紀広純と任につ き、広純を知る人でもあった。武官や地方官の経験は乏しいが、高麗と の外交では漂着経験があり、耐久・適応力もある。陸奥守退任後は大蔵 大輔、内蔵頭を歴任し、物資の調達・出納にも明るかったらしい。 」(258頁)


<資料①>

《天平宝字三年(七五九)十月辛亥【十八】》○辛亥。迎藤原河清使判官内蔵忌寸全成。自渤海却廻。海中遭風。漂着対馬。渤海使輔国大将軍兼将軍玄菟州刺史兼押衙官開国公高南申相随来朝。其中台牒曰。迎藤原河清使惣九十九人。大唐禄山先為逆命。思明後作乱常。内外騒荒。未有平殄。即欲放還。恐被害残。又欲勒還。慮違隣意。仍放頭首高元度等十一人。往大唐迎河清。即差此使。同為発遣。其判官全成等並放帰卿。亦差此使随徃。通報委曲。

<資料②>

《天平宝字三年(七五九)十二月辛亥【十九】》○辛亥。高麗使高南申。我判官内蔵忌寸全成等、到着難波江口


<資料③>

《天平宝字四年(七六〇)二月辛亥【二十】》○辛亥。以従四位下笠王。為左大舍人頭。従五位下豊野真人尾張為内蔵頭。在唐大使正四位下藤原朝臣河清為文部卿。従五位下高円朝臣広成為少輔。従五位下石川朝臣人成為仁部少輔。従五位下巨勢朝臣広足為節部少輔。従五位上当麻真人広名為遠江員外介。従五位下藤原朝臣楓麻呂為但馬介。是日。渤海使高南申等帰蕃。


<資料④>

《宝亀五年(七七四)三月癸卯【庚子朔四】》○三月癸卯。讃岐国飢。賑給之。」但馬守従四位下安倍朝臣息道卒。是日。新羅国使礼府卿沙〓[冫+食]金三玄已下二百卅五人。到泊大宰府。遣河内守従五位上紀朝臣広純。大外記外従五位下内蔵忌寸全成等。問其来朝之由。三玄言曰。奉本国王教。請修旧好毎相聘問。并将国信物及在唐大使藤原河清書来朝。問曰。夫請修旧好毎相聘問。者乃似亢礼之隣。非是供職之国。且改貢調称為国信。変古改常。其義如何。対曰。本国上宰金順貞之時。舟楫相尋。常脩職貢。今其孫〓。継位執政。追尋家声。係心供奉。是以。請修旧好毎相聘問。又三玄本非貢調之使。本国便因使次。聊進土毛。故不称御調。敢陳便宜。自外不知。於是。勅問新羅入朝由使等曰。新羅元来称臣貢調。古今所知。而不率旧章。妄作新意。調称信物。朝為修好。以昔准今。殊無礼数。宜給渡海料。早速放還。


<資料⑤>

《宝亀五年(七七四)九月庚子【四】》○庚子。授正六位上連豊人外従五位下。以従五位下安倍朝臣弟当為少納言。大納言正三位藤原朝臣魚名為兼中務卿。従五位下石川朝臣浄麻呂為少輔。従五位下高麗朝臣石麻呂為員外少輔。従五位下藤原朝臣長道為主税頭。従三位藤原朝臣継縄為兵部卿。左兵衛督如故。外従五位下日置首若虫為漆部正。従四位上大伴宿禰伯麻呂為宮内卿。従四位下大伴宿禰家持為左京大夫。従五位下藤原朝臣鷹取為亮。従五位上弓削宿禰塩麻呂為右京亮。外従五位下伊勢朝臣子老為造宮少輔。外従五位下丹比宿禰真継為鋳銭次官。外従五位下英保首代作為修理次官。周防掾如故。従五位下藤原朝臣菅継為常陸介。左京大夫従四位下大伴宿禰家持為兼上総守。従五位下巨勢朝臣馬主為能登守。大外記外従五位下内蔵忌寸全成為兼越後介。従五位上石川朝臣真永為大宰少弐。



→→葬司任命

①延暦8年(789)12月29日

御葬司…藤原継縄(従二位大納言)、神王(正四位上参議)、当麻王(正五 位上備前守)、気多王(従五位上散位)、広上王(従五位下内礼正)、紀古 佐美(正四位下参議左大弁)、石上家成(従四位下宮内卿)、藤原菅継(従 四位下右京大夫)、文室与企(正五位下右中弁)、藤原黒麻呂(従五位上治 部大輔)、桑原足床(同散位)、紀兄原(従五位下出雲守)、息長浄継(外 従五位下雅楽助)、中臣栗原子公(同大炊助) 山作司…藤原小黒麻呂(正三位中納言)、壱志濃王(正四位下参議)、小倉 王(従五位上阿波守)、大庭王(従五位下散位)、藤原真友(正五位下)、 文室忍坂麻呂(従五位上因幡守)、文室久賀麻呂(同但馬介)、阿倍弟当(同 左少弁)、文室八嶋(従五位下弾正弼) 養民司…多治比賀智(従五位下信濃介)、林浦海(外従五位下安芸介) 作路司…巨勢嶋人(従五位下左衛士佐)、丹比真浄(同丹波介)

→→延暦元年六月以降、按察使兼鎮守将軍であ大伴家持は陸奥守兼鎮守副将軍内蔵全成の上官であった。ちなみに天応元年9月7日、 内蔵全成、陸奥守。そして同年12月1日、 陸奥守内蔵全成、兼鎮守副将軍に任ぜられる。

→→→→この名で判明する通り、「忌寸」であるがゆえに内蔵忌寸全成は朝鮮半島系渡来人の子孫であった。桓武天皇在任時から顕著になった渡来系氏族に対して、従五位下を授与して新官人化していったが、併せて系譜を整備していった音にも注目しておきたい。例えば、次の通りである。

*(漢氏系)坂上大宿禰・内蔵朝臣・坂上大宿禰・坂上宿禰・大蔵宿禰・内蔵宿禰・桧原宿禰・山口宿禰・林宿禰 

→→→→→

*内蔵氏:延暦四年全成<正五位下>(大蔵大輔・内蔵頭)

     延暦十六年賀茂麻呂<外従五位下>(大外記)

     弘仁三 年帯足<正六位﹈>         ※宿禰賜姓

     天長十年秀嗣<従六位上>(大外記)    ※宿禰賜姓

     承和六年高守・聡通            ※朝臣


*内蔵氏:嵯峨天皇と姻戚関係にあり、内蔵氏 (子源 神姫・源容姫・源吾姫)がある。このほかにも飯高氏 (子源常・源明)、惟良氏 (子源勝)、山田氏 (子源啓・源密姫)がある。これらの諸氏から出た生母所生の皇子皇女が全て賜姓源氏となった。






<関連資料①>

「雜物請用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平寶字4年(西暦760年)

記事

 速袖八領[布]用廝仕丁等料
  櫛借七十二領[雜色袷]
  東裳一腰[給料□□□ 養□(優)婆夷]
  被卅<「*廿九」>一領[已上自内裏給出]
   二領白帛         一領赤帛  
   一領橡          廿七領布[一領細布 十六領調布 十領祖]
   用廿二<「*三」>領[大工并雜工等料]
   殘九<「*六」>領
    一領赤帛        一領橡
    七<「*六」>領布[四領調 三<「*二」>領祖]
  堂幌九條[自内裏給出]
   三條細布         六條祖布[已上殘]
  金靑九斤          朱沙六斤四兩
  同黄二斤六兩        烟紫三百六十五枚[中 已上自外嶋坊少僧都所請]
  白靑四斤十兩一分[四斤八兩自外嶋坊請 二兩一分買] 胡粉十五斤八兩[十斤八兩自外嶋坊請五斤買]
  緑靑百五斤[百斤文部省少録内蔵全成所進
                 「*七十九斤四兩二分」]
  白緑十五斤十三兩三分[買]  丹廿一斤[十六斤自外嶋坊少僧都所請 五斤文部省少録内蔵全成所進]
                    [「*七十八斤四兩二分黑錫大廿八斤二兩三分[給]」]
  靑黛三斤六         蘓芳卞二升[已上自内裏給]
  空靑□斤          紫土四兩[已上買]
  金薄一万七千八百五十枚[練金〓≪よんじゅう≫三兩打得]
  膠一百五斤         墨一百十四<三>廷[中品二廷 下品百十二廷 已上買]
                 [七十廷塗架後料]
                 [十二廷作雜公文料]
                 [卅一廷畫料]

出典

『大日本古文書』4(459頁~483頁の内477頁~478頁)(『正倉院文書』続々修45帙5)


<関連資料②>

「造寺雑物請用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平宝字5年(西暦761)月日?

記事

金青九斤                     朱沙六斤四両
同黄二斤六両                   烟紫三百六十五枚[中 已上自外嶋坊少僧都所請]
白青四斤十両一分[四斤八両自外嶋坊請 二両一分買] 胡粉十五斤八両[十斤八両自外嶋坊請 五斤買]
緑青百五斤[百斤文部省少録内蔵全成所進]
白緑十五斤十三両三分[買]             丹廿一斤<「*九十九斤四両二分」>[十六斤自外嶋坊少僧都所請 
                                           五斤文部省少録内蔵全成所進
                                          「*七十八斤四両二分黒蝋大廿八斤二両三分〔給〕」]
青薫三斤六(ママ)                 蘇芳変二斤[已上自内裏給]
空青□斤                     紫土四両[已上買]
(ママ)金薄一万七千八百五十枚[練金〓≪よんじゅう≫三両打得]
膠一百五斤                    墨一百十四<三>廷[中品二廷 下品百十二廷 已上買]
 用                         [七十廷塗架後料 十二廷作雑公文料 卅一廷画料]
(後略)

出典

『大日本古文書』25(307頁~331頁の内326頁)(『正倉院文書』続々修45帙5)


<関連資料③>

「雜物請用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平寶字4年(西暦760年)

記事

 速袖八領[布]用廝仕丁等料
  櫛借七十二領[雜色袷]
  東裳一腰[給料□□□ 養□(優)婆夷]
  被卅<「*廿九」>一領[已上自内裏給出]
   二領白帛         一領赤帛  
   一領橡          廿七領布[一領細布 十六領調布 十領祖]
   用廿二<「*三」>領[大工并雜工等料]
   殘九<「*六」>領
    一領赤帛        一領橡
    七<「*六」>領布[四領調 三<「*二」>領祖]
  堂幌九條[自内裏給出]
   三條細布         六條祖布[已上殘]
  金靑九斤          朱沙六斤四兩
  同黄二斤六兩        烟紫三百六十五枚[中 已上自外嶋坊少僧都所請]
  白靑四斤十兩一分[四斤八兩自外嶋坊請 二兩一分買] 胡粉十五斤八兩[十斤八兩自外嶋坊請五斤買]
  緑靑百五斤[百斤文部省少録内蔵全成所進
                 「*七十九斤四兩二分」]
  白緑十五斤十三兩三分[買]  丹廿一斤[十六斤自外嶋坊少僧都所請 五斤文部省少録内蔵全成所進]
                    [「*七十八斤四兩二分黑錫大廿八斤二兩三分[給]」]
  靑黛三斤六         蘓芳卞二升[已上自内裏給]
  空靑□斤          紫土四兩[已上買]
  金薄一万七千八百五十枚[練金〓≪よんじゅう≫三兩打得]
  膠一百五斤         墨一百十四<三>廷[中品二廷 下品百十二廷 已上買]
                 [七十廷塗架後料]
                 [十二廷作雜公文料]
                 [卅一廷畫料]

出典

『大日本古文書』4(459頁~483頁の内477頁~478頁)(『正倉院文書』続々修45帙5)


<関連資料④>

「造寺雑物請用帳」(『正倉院文書』)

撰述日

天平宝字5年(西暦761)月日?

記事

金青九斤                     朱沙六斤四両
同黄二斤六両                   烟紫三百六十五枚[中 已上自外嶋坊少僧都所請]
白青四斤十両一分[四斤八両自外嶋坊請 二両一分買] 胡粉十五斤八両[十斤八両自外嶋坊請 五斤買]
緑青百五斤[百斤文部省少録内蔵全成所進]
白緑十五斤十三両三分[買]             丹廿一斤<「*九十九斤四両二分」>[十六斤自外嶋坊少僧都所請 
                                           五斤文部省少録内蔵全成所進
                                          「*七十八斤四両二分黒蝋大廿八斤二両三分〔給〕」]
青薫三斤六(ママ)                 蘇芳変二斤[已上自内裏給]
空青□斤                     紫土四両[已上買]
(ママ)金薄一万七千八百五十枚[練金〓≪よんじゅう≫三両打得]
膠一百五斤                    墨一百十四<三>廷[中品二廷 下品百十二廷 已上買]
  用                         [七十廷塗架後料 十二廷作雑公文料 卅一廷画料]
(後略)

出典

『大日本古文書』25(307頁~331頁の内326頁)(『正倉院文書』続々修45帙5)


<関連資料⑤>

『続日本紀』天平宝字三年一〇月一八日条  

「迎藤原河清使判官内蔵忌寸全成。自潮海却廻。海中遭風。漂  着対馬。潮海使輔国大将軍兼将軍玄菟州刺史兼押百官開国公  高南申相随来朝。其中台牒曰。迎藤原河清使惣九十九人。大  唐禄山先為逆命。思明後作乱常。内外騒荒。束有平珍。即欲  放還。恐被害残。又欲勒還。慮違隣意。働放頭首高元度等十  一人。往大唐迎河清。即差此使。同為発遣。豊(判官全成等並  放帰郷。亦差此使随往。通報委曲」


*宗形王    延暦9年7月24日

→経歴

  • 天平宝字3年(759年) 6月16日:従四位下(直叙)
  • 『続日本紀』六月庚戌。
  • 「從三位船王。池田王並授三品。正四位上諱從三位。從五位下御方王。御使王。无位林王。笠王。宗形王並從四位下。從五位下河内王從五位上。正四位下紀朝臣飯麻呂。藤原朝臣眞楯並正四位上。從四位上藤原朝臣巨勢麻呂正四位下。從四位下藤原朝臣御楯從四位上。正五位下阿倍朝臣嶋麻呂。大伴宿祢犬養。石川朝臣名人。正六位上岡眞人和氣。從五位下仲眞人石伴。從五位上藤原惠美朝臣眞光。從五位下藤原惠美朝臣久須麻呂並從四位下。正五位下中臣朝臣清麻呂。從五位上藤原朝臣魚名並正五位上。從五位下藤原惠美朝臣朝狩正五位下。從五位下都努朝臣道守。阿倍朝臣毛人。大伴宿祢御依。豊野眞人出雲並從五位上。正六位上三嶋眞人廬原。阿倍朝臣許智。藤原朝臣雄田麻呂。藤原惠美朝臣小弓麻呂。藤原惠美朝臣薩雄。橘宿祢綿裳並從五位下。從四位下室女王。飛鳥田女王並四品。從五位下弓削女王。无位川邊女王。加豆良女王。從五位下藤原惠美朝臣兒從並從四位下。」以從四位上藤原朝臣御楯任參議。」

  • 天平宝字6年(762年) 正月9日:右大舎人頭
『続日本紀』天平宝字6年正月条
戊子。以信部少輔從五位下紀朝臣牛養爲兼少納言。從五位上阿倍朝臣毛人爲左中弁。從四位下石川朝臣豊成爲右大弁。從五位上大伴宿祢家持爲信部大輔。外從五位下忌部連黒麻呂爲内史局助。從四位下宗形王爲右大舍人頭。從五位下淡海眞人三船爲文部少輔。從五位下中臣朝臣伊加麻呂爲礼部少輔。從四位下林王爲木工頭。從五位上上毛野公廣濱爲左京亮。外從五位下茨田宿祢枚野爲東市正。從五位下阿倍朝臣許智爲攝津亮。從五位上巨曾倍朝臣難破麻呂爲造宮大輔。外從五位下椋垣忌寸吉麻呂爲右平準令。從五位下笠朝臣眞足爲右勇士翼。從五位上高元度爲參河守。從五位下阿倍朝臣小路爲近江介。從五位下阿倍朝臣息道爲若狹守。外從五位下日置造蓑麻呂爲丹波介。從五位上河内王爲丹後守。從五位上長野連公足爲因幡守。從五位下石上朝臣奥繼爲播磨介。從五位下大野朝臣廣立爲肥前守。從五位下百濟王理伯爲肥後守。從五位下田口朝臣大戸爲日向守。」





⇒『続日本紀』宝亀3年正月条
甲申。天皇臨軒。渤海國使青綬大夫壹萬福等貢方物。」復无位粟田朝臣深見本位從四位下。」授從五位上河内王正五位下。從五位下大田王從五位上。无位三方王。宗形王並從五位下。從五位上甘南備眞人伊香。佐伯宿祢助。佐伯宿祢眞守。巨勢朝臣公成。大藏忌寸麻呂。佐伯宿祢三方並正五位下。從五位下大伴宿祢不破麻呂。石川朝臣名繼。路眞人鷹養。安曇宿祢石成。大伴宿祢形見並從五位上。无位山邊眞人笠。正六位上石川朝臣名主。安倍朝臣諸上。多治比眞人歳主。粟田朝臣鷹主。藤原朝臣長繼。石上朝臣繼足。布勢朝臣清直。佐伯宿祢藤麻呂並從五位下。正六位上伊福部宿祢毛人外從五位下。


  • 宝亀8年(777年) 10月13日:右大舎人頭
  • ⇒『続日本紀』宝亀8年10月条
  • 「冬十月辛巳。授无位紀朝臣虫女從五位下。
  • 辛夘。正四位上藤原朝臣家依爲參議。正五位下高賀茂朝臣諸雄爲神祇大副。參議正四位上藤原朝臣是公爲兼左大弁。春宮大夫左衛士督侍從如故。正四位下田中朝臣多太麻呂爲右大弁。從五位上美和眞人土生爲右少弁。中納言從三位物部朝臣宅嗣爲兼中務卿。從四位下鴨王爲左大舍人頭。從五位下宗形王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣末茂爲圖書頭。從五位下百濟王仙宗爲助。從五位下賀茂朝臣大川爲内藏助。參議從三位藤原朝臣百川爲兼式部卿。右兵衛督如故。神祇伯從四位下大中臣朝臣子老爲兼大輔。從五位下藤原朝臣眞葛爲散位頭。從五位下安倍朝臣謂奈麻呂爲治部少輔。正五位上多治比眞人長野爲民部大輔。從五位下多朝臣犬養爲少輔。從五位上當麻眞人永嗣爲大判事。從四位下神王爲大藏卿。從五位下安倍朝臣草麻呂爲齋宮長官。從四位下石川朝臣名足爲造東大寺長官。從五位下紀朝臣門守爲鑄錢次官。從五位下藤原朝臣長河爲中衛少將。從五位下大中臣朝臣諸魚爲衛門佐。從五位下百濟王仁貞爲員外佐。從五位下紀朝臣弟麻呂爲左衛士員外佐。外從五位下大荒木臣押國爲遠江介。參議右衛士督從四位下藤原朝臣小黒麻呂爲兼常陸守。正五位下粟田朝臣鷹守爲介。從五位上紀朝臣家守爲美濃守。從五位下安倍朝臣笠成爲越中守。從五位下廣川王爲因幡守。右大弁正四位下田中朝臣多太麻呂爲兼出雲守。從五位下藤原朝臣仲繼爲播磨介。從五位上田中王爲伊豫守。大納言近衛大將從二位藤原朝臣魚名爲兼大宰帥。從四位上石上朝臣息嗣爲大貳。從五位下笠朝臣名麻呂爲少貳」

  • 宝亀10年(779年) 2月23日:紀伊守
  • ⇒『続日本紀』宝亀10年甲午条
  • 「甲午。以從五位上利波臣志留志爲伊賀守。從五位下田口朝臣祖人爲尾張介。從五位下藤原朝臣長山爲參河守。從五位上當麻王爲遠江守。左衛士員外佐從五位下紀朝臣弟麻呂爲兼相摸守。從五位下百濟王仙宗爲安房守。從五位上紀朝臣眞乙爲上総守。從五位下紀朝臣豊庭爲下総守。從五位下藤原朝臣園人爲美濃介。中務大輔從五位上藤原朝臣鷲取爲兼上野守。衛門佐從五位下大中臣朝臣諸魚爲兼下野守。外從五位下久米連眞上爲介。從五位下廣田王爲越後守。造宮大輔從五位上紀朝臣犬養爲兼丹後守。從五位下廣河王爲因幡守。從五位下藤原朝臣眞縵爲備前介。從五位下氣多王爲安藝守。從五位下紀朝臣難波麻呂爲周防守。從五位下宗形王爲紀伊守。從五位下藤原朝臣大繼爲伊豫介。外從五位下賀祢公小津麻呂爲筑後介。從五位下藤原朝臣末茂爲肥後守。大學博士外從五位下膳臣大丘爲兼豊後介。」授正六位上上村主虫麻呂外從五位下。」


  • 延暦2年(783年) 2月29日:従五位上

⇒『続日本紀』延暦2年2月丙午
丙子。授從五位下宗形王從五位上。」


  • 延暦3年(784年) 4月2日:大炊頭
  • ⇒『続日本紀』延暦3年4月
  • 「夏四月壬寅。授正六位上上毛野公我人外從五位下。」以外從五位下忌部宿祢人上爲神祇大祐。從五位上海上眞人三狩爲右中辨。從五位下藤原朝臣是人爲中務少輔。從五位下石川朝臣魚麻呂爲左大舍人助。從五位上藤原朝臣菅繼爲治部大輔。從五位上大中臣朝臣諸魚爲兵部大輔。少納言如故。從四位下淡海眞人三船爲刑部卿。大學頭因幡守如故。從五位上橘朝臣綿裳爲大判事。參議正四位下神王爲兼大藏卿。從五位下安倍朝臣弟當爲少輔。從五位下紀朝臣繼成爲大膳亮。從五位上宗形王爲大炊頭。從五位下山口王爲鍛冶正。從五位下川邊朝臣淨長爲主油正。外從五位下丹比宿祢眞淨爲内掃部正。正四位下藤原朝臣鷹取爲左京大夫。從五位下田口朝臣清麻呂爲右京亮。外從五位下上毛野公我人爲衛門大尉。從五位下大原眞人越智麻呂爲隼人正。外從五位下津連眞道爲右衛士大尉。近江大掾如故。從五位下紀朝臣眞人爲攝津亮。從五位下和朝臣三具足爲上総介。外從五位下飛鳥戸造弟見爲飛騨守。從五位下路眞人玉守爲上野介。從五位下文室眞人眞老爲長門守。從五位下正月王爲土左守。從五位下大春日朝臣諸公爲防人正。從五位下多治比眞人年持爲日向守。」


  • 延暦9年(790年) 7月24日:讃岐守
  • ⇒『続日本紀』延暦9年7月
  • 「戊子。從五位下紀朝臣呰麻呂爲少納言。從四位下石川朝臣眞守爲右大弁。從五位上調使王爲左大舍人頭。從五位上藤原朝臣刷雄爲右大舍人頭。近衛少將從五位下藤原朝臣繩主爲兼式部少輔。備前介如故。從五位上阿保朝臣人上爲大學頭。從五位上藤原朝臣是人爲治部大輔。從五位下文室眞人大原爲少輔。從五位上藤原朝臣眞作爲大藏大輔。從四位下紀朝臣犬養爲大膳大夫。從五位上葛井連根主爲亮。從五位下大春日朝臣清足爲官奴正。正五位下葛井連道依爲春宮亮。從五位下大伴宿祢蓑麻呂爲中衛少將。從五位下藤原朝臣今川爲伊勢守。從五位上宗形王爲讃岐守。從五位下百濟王元信爲肥後介。」


*大庭王    延暦16年2月15日

→経歴

*藤原継彦   延暦24年10月4日

→経歴