2026年1月25日日曜日

万葉集4301番歌の題詞

 

「従常宮、請雑物」

上記は平城宮1964年度調査時に出土した木簡である。

平城宮跡 (所在地 奈良市佐紀町 )

この「常宮」といえば、『万葉集』巻20、4301番歌の題詞の記事である。

4301番歌

[題詞]七日、天皇太上天皇皇大后在於東常宮南大殿肆宴歌一首

[原文]伊奈美野乃 安可良我之波々 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之

[訓読]印南野のあから柏は時はあれど君を吾が思ふ時は実無し


「常宮」の用例を知らなかっただけに、この木簡は私にとって貴重である。

岩波大系は「平常の御殿」(第4巻、403頁)だと説明する。2例目の出現で語義理解に大きな寄与はないものの、当時の人々にとって、「つね(常)みや」の語義を

 「普通と変わらずそのままずっと維持されている存在・状態・性質など」(岩波古語辞典、885頁)

であったとして、「いつもの御殿」だと解釈し、臣下もしくは一般人が使用する語句だと。理解して大きな誤りはない



古代の下駄

 志賀鴨遺跡出土の下駄

*所在地   滋賀県高島郡高島町大字鴨小宇六反田、東良

「 下駄は約二〇点出上した。台は小判形と隅丸長方形があり、台と のもある。 歯は一木で、歯の形は末広がりになって下方が台よりはみ出ている。 前鼻緒位置は左右どちらかに偏しているものが多いが中央にあるものも ある。」(『木簡研究』第2号、36頁)


ちなみに鳥取県青谷横木遺跡では奈良・平安時代の下駄が出土している。

状態の良いものは足の裏の形までしっかりと残っています。写真の下駄は、ほぼ完全な形(1枚目)のもので、鼻緒の位置から左足のものと考えられます。裏側をみると前後二つある歯が両方ともすり減っています(2枚目)。しかも後ろからみると、足の内側部分が大きくすり減っていることが分かります(3枚目)。



履物からみた古代人と現代人/とりネット/鳥取県公式サイト

(2)石製下駄




石製下駄

せきせいげた

考古資料 / 古墳 / 東京都

出土地:東京都世田谷区 野毛大塚古墳出土

古墳時代・5世紀

石製(滑石)

長16.8・16.0 幅8.8・8.3 厚さ3.0・2.7

1対

重要文化財



(3)『下駄の考古学』は名著。

本村充保著 (ものが語る歴史, 41)

同成社, 2022.3

古代の釘の種類ー打合釘・平目釘

 

平城宮跡第18次調査(1964年、昭和39)は平城官の西辺――西面 中間(佐伯円)と同南門(玉手関)の中間の地域でトレンチ発掘を実施した。調査区全体は南流する秋篠川の旧河道にあたり、東西に走る掘立柱塀等の他、特徴ある遺構であり、南北3.5 m、東西4m以上の方形の区画に木杭をめぐらした施設であるという。

その遺跡から出土した木簡に、次の文字が墨書されていた。

 「<打合釘廿□」

「□□形二枚□堺打下口□ 」

「 □平目釘一千六百□ 」

「(後カ) □打合釘 百」 


今、この釘の鉄含有量は知らないし、また鉄の生産地も不明である。

なお、上記の「堺打」に関連するのは「堺打工」である。堺打工とは、正倉院文書に見る奈良時代の銅製品加工のスペシャリストで、特に毛彫り(細密な線刻)を担当した工人であった。銅板に細線を刻む高度な装飾技術の専門職には、堺打工以外に、

火作工:鋳造

真作工:成形

砥磨工:研磨

金泥工:金泥の装飾

魚子打工(ななこうちこう):魚子地文様の打ち出し

等の工程を担当する専門工人があった。


さて、ここで東京芸術大学に提出された博士論文(番号1312939)

「建築用和釘における非金属介在物及び 酸化皮膜生成への過飽和酸素の影響」

を取りり上げたい。古主泰子氏(東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻 保存科学研究領域、美術工芸材料学)によよる「和釘」への愛情あふれる労作である。



<資料①>

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ADFJP93000017
木簡番号1939
本文○平目釘一千六百□\〈〉
寸法(mm) 
 
厚さ 
型式番号091
出典◎木研2-66頁-(3)(平城宮2-1939)
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮西面大垣
Heijō Palace (Western Side of the Outer Wall)
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所
Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数18
遺構番号SK1979
地区名6ADFJP93
内容分類文書?
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観710-790
木簡説明平目釘を書きあげたもの。正倉院文書には「平頭釘」(大日本古文書一五-三一六)が散見するが、あるいはこれと同義か。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6ADFJP93000017

■研究文献情報

<資料②>

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ADFJP93000018
木簡番号1937
本文←□□〔雲ヵ〕形二枚□堺打下〈〉→
寸法(mm) 
 
厚さ 
型式番号091
出典◎木研2-66頁-(2)(平城宮2-1937)
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮西面大垣
Heijō Palace (Western Side of the Outer Wall)
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所
Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数18
遺構番号SK1979
地区名6ADFJP93
内容分類文書
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観710-790
木簡説明銅加工文書の断片か。堺打は銅製品加工の一工程で、毛彫りをさす。正倉院文書には銅物製造工として火作工・真作工・砥磨工・堺打工・金泥工・魚子打工の名がみられる(大日本古文書一六-二九二・二九三・三〇七)。正倉院には雲花形の鍍金銅板がある(『正倉院御物図録』第一三冊第四二図)。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6ADFJP93000018

<資料③>魚子地文様の打ち出し


石川年足墓誌

いしかわとしたりぼし

考古資料 / 奈良 / 大阪府

出土地:原品:大阪府高槻市 真上出土

原品:奈良時代・天平宝字6年(762)

金銅製(原品:金銅製)

縦29.6 横10.4 厚0.3

1枚

銘文:武内宿祢命子宗我石川宿祢命十世孫三位行左大弁石川石足朝臣長子御史大夫正三位兼行神祇伯年足朝臣当平成宮御宇天皇之世天平宝字六年歳次壬寅九月丙子朔乙巳春秋七十有五薨于京宅以十二月乙巳朔壬申葬于摂津国島上郡白髪郷酒垂山墓礼也儀形百代冠蓋千年夜台荒寂松柏含煙鳴呼哀哉

2026年1月18日日曜日

調査用メモ)天平九年(737)パンディミックの典薬寮勘文 ーー流行病(天然痘)典薬寮勘文

調査用メモーー以下に創見などはなく、単なる覚書。

「典薬寮勘申」とは何か

1. 「勘申(勘文)」とは

官司が政務遂行運用上の問題点・原因究明及び対応策・改善案・必要物資の不足などを調査し、上部機関へ報告し、判断を仰ぐための上申書を「勘申」「勘文」と呼ぶ。  現代日本公文書用語でいえば、さしずめ「上申書もしくは具申書(submit a proposal)」「改善提案書」か。

⇒「勘申」の「申」を読むに、卑見によれば「カンジン」ではなく、「カンシン」。

QC活動、TQM、カイゼン文化など現場からのボトムアップ改善型とは異なるが、今風に言えば、現状の問題点⇒原因分析(Why分析、特性要因図など)⇒改善策(実行可能性・コスト・リスクを含む)⇒期待される効果(効率化、品質向上、コスト削減など)⇒実施手順・必要リソースなども含まれていたと想定してよい。個々人のインタビュー記録などが存在しないものの、律令時代の役人たちも能吏であった。


2. 典薬寮が出した勘申=典薬寮勘申

典薬寮は宮医療・調薬・薬園管理を担った機関。

その典薬寮が薬物の不足、諸国からの薬物貢進の遅延、医療制度の運用トラブル

などについて提出した文書が「典薬寮勘申」。

→史料:天平九年(737)の典薬寮勘文は

天平九年の疫病流行(天然痘とされる)に関連し、薬物の不足や供給体制、発生原因と対応策などに関して、典薬寮が太政官へ報告した文書 

『古代医療制度研究史料の一つ


4、 典薬寮勘申が示すもの

古代日本の医療行政の実態

薬物流通・薬園管理・官人への薬給付制度

疫病時の国家対応

律令官司の文書行政の仕組み

→天平9年6月26日太政官符とは

(『類聚符宣抄』収録文書)
1. 背景:天平9年=天然痘パンデミックのピーク
天平7〜9年の天然痘流行は、当時の人口の25〜35%が死亡したと推計される大災害。
737年6月には国家行政が停止するほどの壊滅的状況に陥る。
6月前後の太政官符はほぼすべてが疫病対策・行政維持のための緊急措置。

 5,『類聚符宣抄』に関して

『類聚符宣抄』は 天平9年から寛治7年までの太政官符・宣旨を部目別に分類した法令集。特に天平9年の文書は緊急行政措置の性格を持ち主に以下の部目に集中:
 *惣官(総務)・民部・兵部・治部
特に疫病流行時は次のような太政官符が多い:
① 課役・調庸の免除・延期
疫病で労働力が失われたため、課役の停止や調の免除が頻発。
② 官人の死亡・補任に関する処理
中央官人の大量死により、官職の補任・代行措置が必要。
③ 医薬・典薬寮関係の緊急措置
典薬寮勘申(天平9年)と連動し、薬物調達・賑給に関する太政官符が出される。
④ 地方行政の継続のための特例措置
国司・郡司の死亡や欠員に伴う臨時措置。


**************
6,天平疫病期 行政文書構造モデル

 1. ネットワークの基本構造
天平疫病期の行政文書の三層構造

A. 中央統治中枢(太政官・中務省)
政策決定・符の発給
官司からの勘申の受理

B. 関連官司(典薬寮・大蔵省・民部省・兵部省など)
各種のトラブル・リスクなどを把握し、勘申を作成・提出
太政官符を受けて実務を遂行

C. 地方行政(国司・郡司)
調庸・課役・戸籍・薬物貢進などの実務
疫病による欠員・機能不全が頻発

 2,想定される主要機関ネットワーク図

① 中央(政策決定)
太政官(符の発給)
中務省(文書管理・詔勅の起草)
② 宮内省系(医療・薬物)
典薬寮(医療・薬物管理)
内薬司(宮中医療)
造薬司(薬の製造)

③ 財政・労役系
 民部省
  1,租税(租・庸・調)の管理
  2,戸籍・計帳の掌握(税の基礎データ)
  3,地方からの貢納物の管理
 主計寮(しゅけいりょう)
  1,各官司の経費申請の審査
  2,出納・会計の統括
  3,決算(備品確認など)の実施
兵部省(兵士・防衛)

④地方
太宰府
・ 国司
郡司
郷長(出挙管理・文書及び戸籍管理・調庸徴収)

 3. エッジ(文書の流れ)

① 勘申(官司 → 太政官)
典薬寮 → 太政官
(薬物不足・貢進遅延・医療体制の破綻)
民部省 → 太政官
(戸籍崩壊・調庸不能)
兵部省 → 太政官
(兵士死亡による軍制の崩壊)

② 太政官符(太政官 → 太宰府・官司・国司)
太政官 → 典薬寮
(薬物調達の指示)
太政官 → 太宰府・国司
(課役停止・調庸免除)
太政官 → 民部省
(戸籍再編の指示)
③ 奏上・申請(地方・大宰府 → 中央)
国司 → 太政官・大宰府
(疫病による欠員報告・租庸調の不能及び免除申請)
郡司 → 国司
(死亡者確認、行政不能報告)


「勘申」を「かんじん」と読む慣習をすて、「かん+シン」と読むことを勧奨したい。「かんじん」では「感心」できない。

「勘申」の「申」は、したり顔に「勘+じん」と読めという。加えて「申」の漢音が「じん」だからと説明する。しかし「申」に呉音・漢音共に「しん」は存在しても、漢音「じん」はない。

 Karlgrenの『Grammata Serica Recensa』を取り上げたい。

①「申」はGSR番号:GSR 1137

②上古漢語(OC)再構音(Karlgren)

ɕi̯ən(シエン)系⇒ Karlgren表記「śi̯ən 」

Karlgrenの “Middle Chinese” は、『切韻』(601年)の音体系を基礎に再構したために、隋・唐代の標準音(長安系)(6〜10世紀)を中心とする時代の漢語音 であった。

→ちなみにBaxter–Sagartでは  *l̥in / *l̥ə[n] 系

③特徴

歯茎硬口蓋化した ś- 系の声母

眞部(真韻)に属する語群

・調:平声

それ故に、卑見は「カンシン」と読む。

⑤余談

「紳士」を「ジンし」とか、「申告」を「ジンこく」と読まないように、「眞部(真韻)に属する語群」の、一連の「申」字系列は

上古音:śi̯ən

中古御:ʑin

であったので、呉音・漢音共に、再構音は「シン」であったとして異論はない。


しかしながら、当然ながら反論として「神」は「ジン」とよむではないかと。たとえば「神社」は「ジン+しゃ」だと。ただし「神道」は「シンとう」だと断りながら。

 この場合、神だけ呉音が「ジン」になる理由は三つの要因が重なったからだと説明しておきたい。

① 上古漢語で 「神」 は g- 系(濁音)に近い系列だった可能性がある。Karlgren では「神」を申系列とりあつかっているので、「シン」としてよまない。しかしBaxter–Sagart では *ɡin / *ɡə[n] 系に再構しており、限りなく「ジン」に近い。

つまり:

•*申・伸・紳・娠 → śi̯ən → ʑin → シン

神 → gən / gin → ʑin →(呉音で濁化)ジン

呉音は南朝音(5〜6世紀)を反映するため、濁音が残りやすい傾向であったので、呉音でジンになったと想定する。

② 宗教語彙は呉音で「濁音化」する傾向の可能性(仏教語の影響を予想する)

仏教語彙関連の呉音には、語頭に濁音(ガ行・ザ行・ダ行・バ行)が多い。

例:

寺(ジ)

慈(ジ)

受(ジュ)

  大(ダイ)

蛇(ジャ)

これは南朝仏教音の特徴で、宗教語を「荘厳な濁音」で読む傾向があったためと考えられる。

③ 日本語の語彙体系で「神(かみ)」は特別扱いされ、音読みも差別化された可能性。

日本語の語彙階層では、神=固有宗教語の中心語彙であったために、外来音(漢字音)を取り込む際に、「特別語」として音の差異性を強調する傾向がある。

例:

神(ジン)

霊(リョウ/レイ)

魂(コン/ゴン)

仏(ブツ)


 しかしながら、、呉音だけ「ジン」の類似音となったものの、漢音は唐音系で濁音が弱いために、再び「シン」に戻った。

つまり先人のだれかが「神」の呉音「ジン」・漢音「シン」の現象を安易に踏襲して、「勘申」も「かん+ジン」と読み始めた結果、それが古代史研究者の特権的立場を維持することとなったと想像する。

早急に「勘申」は「かん+シン」だと訂正する方が感心です。





2026年1月7日水曜日

「奈良NaRa」の語源に関するエッセイ

  「他人の空似」という言葉がある。言い古された例であるが、

日本語:神(Kami)

朝鮮語:감히(kamhi)⇒ 「恐れながら」の意

など多数ある。

佐藤ひろみ氏の紹介文を以下に転載する。

「神宮寺寺誌によれば、若狭の語源は朝鮮語ワカソ(ワ ッソ=来 るとカッソ=往 くとの合成語) が和加佐と訛ってさらに若狭と宛字された地名で、奈良もまた朝鮮語ナラ(国 という意味でナラ して開けた土地すなわち都という意味)を 語源とし後に宛字されたものであるとされている。こ の地方が若狭の中心で、白鳳時代から拓け、この谷は上陸した半島文化が大和(朝 鮮語でナラと おにゆう もいう)へ 運ばれた最も近い道であったという。国府のあった遠敷は朝鮮語ウオンフー ・「遠く ねごり にやる」が訛ったものとされ、根来は朝鮮語ネ、コーリ 「汝の古里」が訛ったとされる。京都や 奈良はそこから百キロほどの直線上にあたるといわれる。さらに神宮寺の起源については次のよ うに記されている。」( 佐 藤 ひろみ「水神のルーツと生活文化II 一 若狭から奈良へ、お水送り神事 ・お水取り神事の周辺から 」(124頁)

この語源説に関する論評は控える。

しかし卑見によると古代朝鮮語の解明が進まない段階で、語源究明の道を現代朝鮮語の知識で分析してよいかと考える。例えば、奈良の語源として、韓国語「ナラ」を提示しているが、この語形は古代朝鮮語だというならば、古代朝鮮半島における新羅・高句麗・百済・加耶などの諸地域言語のどれに該当するのかまで、考察に加えなくてはならない。

 現在の言語資料から遡上できるのは、中期朝鮮語のもう少し古形である「NaraH」

である。さらに言及すれば、この「NaraH」は「NaraK」に遡る可能性も想定されている。

そうであれば、古代朝鮮語「NaraK」と「NaRa」(奈良)とを比較したとき、それは類似していると考えるべきか、それとも他人の空似とすれば良いだろうか。

佐藤氏をはじめとする博雅の士のご教示を待ちたい。

2025年12月31日水曜日

丹後国熊野郡の私部は蘇我系氏族

以下の木簡が平城京で発見されている。

 丹後国熊野郡私部郷

丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄《》納一斗五升

平城宮二条条間大路南側溝

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALGAK58000003


⇒私部の設定は敏達天皇6年(577年、『日本書 紀 』)。その前年に敏達皇后となった額田部皇女(後の推古天皇)は蘇我系皇族であり、私部設定の背景には蘇我氏の強力なバックグランドを想定してよい(角林1989)

この角林説に依拠すれば、湯舟坂2号墳(6世紀末頃から7世紀初めまで円墳墓、京都府京丹後市久美浜町須田所在。須田古墳群の一基)の被葬者として蘇我系の私部であったという仮説を提示しておきたい

なお、古代丹後地方は日本海交易の要衝でありクロスロードに位置していた。その地域と朝鮮半島との間にヒトと文物の往来を想定してよい。

<参考文献>

金宇大「装飾付大刀からみた 湯舟坂2号墳被葬者の性格」『京都府立大学文化遺産叢書第33集  地域資源としての湯舟坂2号墳 』諫早 直人編、京都府立大学文学部歴史学科刊、2025年3月6日、41-56頁