2025年6月18日水曜日

古代の健脚:約800キロメートルの多賀城-平安京間を6日間で走れるか?

 先に大宰府ー平城京間の約640㎞(Google算出)を4日間で到達できるかという発問の下て、それに疑問を呈した。

そうしたならば、古代の健脚であえば、約600キロメートル(Googl算出)の多賀城-平安京間を6日間で走破したという実例があるという教えを受けた。

桓武天皇と古代多賀城間の通信は確かに6日から、遅くとも8日間で往来したと『続日本紀』に記述されている。

その距離であれば、

1)徒歩移動の概算

  • 距離約600km以上

  • 1日の歩行距離平均30kmと仮定

  • 所要日数約20日以

この計算は、1日8時間の歩行を前提としている。

2)マラソンペースでの走行時間

  • 距離約600km

  • 平均ペースフルマラソンの平均ペース(1kmあたり6分)

  • 計算600km × 6分/km = 3,600分 = 60時間

この計算では、休憩や睡眠を含まない連続的な走行時間を求めている。


いずれにせよ、各街道の駅にフルマラソン選手と同等の運動能力を有する運び手が常時、多数配置されていること。

しかも海道はほぼ直線で平坦で舗装されており、ジャリ道など走行の障害がないこと

河川を前にしても、橋梁などで容易に渡河できること。その上で山間部の上り道もほとんどないこと。

さらに言えば、夜間の走行も可能であること、

走行中に補給の水や食料も完備されていること。

最も重要なのは、重要な知らせを送り届けなくてはならないという使命感の持ち主が、運び手にいること。そしてそれに見合う俸給が支給されること。


まだまだ多数あるが、長距離選手を育成するコーチの意見を参考にしても、あまりに否定的である。


日本古代史の先生方は全く疑問の余地もなく、史書通りに歴史を記述なさる。

それに疑問を呈するのは、まったくの邪道だろうか。


。。

2025年6月16日月曜日

関東地方の渡来人--鶴ヶ島市史よりの転載

 

以下の文は、『鶴ヶ島市史』からの転載である。

大変に便利な表であり、これを基盤にして自説を展開していきたい。



 関東地方の渡来人

165 ~ 166
 大陸や半島からの渡来人の配置状況については先述の通りであり、七世紀以降は朝廷の方針変更のため、未開地の多い関東に安置されるようになったのである。
 しかし、それ以前にも渡来人はすでに移住していたのであった。
 関東地方の渡米人関係年表は大略次の通りである。
年号西暦事項
六世紀以前武蔵国の屯倉(みやけ)(朝廷直轄領)を掌る者の中に渡来人がいた。旧神代村の大半、三鷹市・武蔵野市・川崎市の一部に高句麗人がいた。
川原氏(漢人系坂上氏)が常陸国の国宰(さい)(国司)となる。
推古三六年六二八土師臣真中知(はじのおみまつち)とその臣の檜前(ひのくまの)浜成・竹戊らが、浅草で黄金像を網にかける(縁起)。檜前氏は漢人(百済経由の漢人)。
天智五年五五五百済人を東国に移す。
〃 七年六六八福信の祖父、背奈福徳が波来す。
天武一三年六八四新羅人羊大夫来朝す。
百済僧尼及び俗人、男女二三人を武蔵国に安置す。
持統元年六八七常陸国に高麗人五六人を居らしむ。
下野国に新羅人一四人を居らしむ
武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女二二人を居らしむ。
〃 三年六八九下野国に新羅人を居らしむ。
下野国那須国造(くにのみやつこ)那須直韋提(あたいいで)、評督(郡司)を賜う。
碑を建て、墓誌を記す。
〃 四年六九〇武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人を居らしむ。
下野国に新羅人らを居らしむ。
和銅四年七一一上野国に多胡郡を新設。碑を建て記念す。
霊亀二年七一六武蔵国に高麗郡を新設。
天平五年七三三武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら五三人、金の姓を与えられる。
〃 一三年七四一国分寺建立の詔下る。関東の国分寺より渡来人関係の文字瓦出土。
天平宝字二年七五八武蔵国に新羅郡を新設。
〃 四年七六〇武蔵国に新羅人一三一人を置く
天平神護二年七六六上野国の新羅人子牛足ら一九三人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。
宝亀二年七七一武蔵国は、東山道より東海道へ転属さる。
〃 一一年七八〇武蔵国新羅人、沙羅真熊(さらのまくま)ら二人に広岡造の姓を賜う。
(今井啓一「帰化人の来住」に一部追加)

 この表で見るように、奈良時代までに、おびただしい渡来人が定住している。しかしこれは関東だけである。初めは渡来人の高度な知識や技術を学ぶために、畿内およびその周辺に配置したので、その地域における渡来人の戸数は莫大なものであった。平安初期に朝廷で編纂された『新撰姓氏録』によると、左京・右京、そして畿内、すなわち、山城・大和・摂津・河内・和泉の五か国だけで、全体で一、〇五九氏のうち、渡来人系は三二四氏を数え、ほぼ三〇パーセントの多きを占めている。畿内では三人に一人が渡来人系であるわけである。地方の農民層では、その比率は幾分かは下がるであろうが、その時代から千数百年もたっている。その間に縁組みが幾重にも重ねられて、今ではすっかり同化してしまって、区別はなくなっている。
われわれ一人一人の血は、古代の渡来人の血を一〇パーセントか二〇パーセントぐらいは受けついでいると考えざるを得ない。

1 三つの文献資料

167 ~ 168
 この広大な地域を占め、豊富な遺構・遺物を内蔵した若葉台遺跡群について、その実体は何であろうか。入間郡の郡衙のあとであるのか、それとも地方豪族の屋敷あとか、或は初期荘園の荘家であるのか、今もって定説というものはない。謎に包まれた遺跡群である。このさい、この遺跡群の本来の姿を探索するため、奈良朝末期から、平安朝初期にかけての文献に現われる入間郡の重要な記事を次に並べてみよう。
(一) 神護景雲三年(七六九)に、入間郡の人、大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)なる人物が、奈良西大寺に商布(※1)千五百段、稲七万四千束、墾田(こんでん)(※2)四〇町、林六〇町を寄進し、その功績を賞して、宝亀八年(七七七)六月五日に、外(げ)従五位下(※3)を追贈された。(『続日本紀』巻三四)
 もっとも、宝亀八年は神護景雲三年から八年たっており、位階の昇進は彼の死後である。とにかく、これだけ莫大な財物を寄進できる地方豪族が入間郡にいたわけである。
 ※(1) 古代に、調・庸にあてないで、商品用として織った布(ぬの)。
 (2) 律令制時代に新たに開墾した田地。

 (3) 律令制時代に、五位以下は、内位と外位(げい)(地方豪族出身)の区別があった。

(二) 赤男が墾田と林を寄進した神護景雲三年から二年たって、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日には、西大寺の資財として、次のような図面と帳面が保存されていた。
一巻 武蔵国墾田文図 宝亀九年 在国印

一巻  同  林地帳 宝亀九年 在国印

 また、田園山野図として、
武蔵入間郡榛原(はいはら)庄一枚 布 在国印

がある。これらの墾田・林・荘園は、いずれも国印を受けている。これは、つまり、武蔵国の国司から出された不輸租(租税の免除)の許可状を受けているということである。(「西大寺資財流記帳」)
 この榛原庄について、西岡虎之助氏は同寺の封戸(ふこ)二五〇戸が荘園化したものだろうという(『荘園史の研究』下)。また、その位置については、『埼玉縣史』は「報恩寺年譜」に記載する「春原荘広瀬郷」の春原荘が榛原庄と同一だとして、広瀬の付近である旧水富村を比定している。
(三) (一)と(二)は奈良朝の記録であるが、それから四一八年たった鎌倉時代になると様相は一変した。建久二年(一一九一)五月一九日の「注進 西大寺領諸庄園現存日記ノ事」という事書(ことがき)がある。その記事を見ると、西大寺には四六か所の荘園があったのだが、そのうち九か所は国司に収公されたり、地方豪族に押領されたりして、今は有名無実だという。その次に「顛倒(てんどう)庄々」という項目がある。これには、かつては西大寺領であったが、今では失われてしまった荘園を列記してある。そのなかに「武蔵国入間郡安堵(刀)(あと)郷栗生(くりふ)村田四〇町 林六〇町」が記載されている。(「西大寺文書」)
 この田と林とは、大伴部直赤男が寄進した墾田・林と符合するものである。
 今までの記述は要するに、
(一) 宝亀八年(七七七)の『続日本紀』巻三四、武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男が墾田四〇町、林六〇町歩その他を西大寺に寄進して、死後、外従五位下を追贈された。
(二) 宝亀一一年(七八〇)には、不輸租の国印をもらった寄進地を資財帳に書きとどめた。
(三) 鎌倉初期になると、入間郡安堵(刀)郷栗生村の荘園にある田四〇町・林六〇町歩は顛倒して、西大寺の所領ではなくなっていた

2025年6月10日火曜日

「続日本紀」天平5年(733)6月条に 武蔵國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人に金姓を

 「続日本紀」天平5年(733)6月条に

丁酉。武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人。依請爲金姓。」

の記事がある。この趣旨は「武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女53人を、要請に依りて金の姓を許した」という内容である。

この記事に注目する理由は、新羅人徳師等男女53人が姓を有していなかったことであり、その創氏にあたり朝鮮半島の王族名である「金」氏を自称したことである。

 つまり新羅人徳師等男女にとって自ら朝鮮半島に出自を持つ血縁集団(父系もしくは母系、あるいは双系)であることを対外的に標榜することが何らかの権益を確保し、さらには権利書であったのではないか。逆な見方をすれば、この時点で新羅人徳師らは経済的上昇を遂げて、郡衙・国衙を経て中央にまで要請が可能となる社会的認知度までも有するようになっていたと言えよう。

ここでは、「金氏」姓が日本人式姓ではなく、わざわざ朝鮮半島由来の新羅式姓であることによって、実感として連帯を意識し、共通の権益を獲得したと理解しておきたい。

なお、徳師ら53人が始祖からの共通の出自の観念を持ち、同族の構成員を記述的に網羅した家計記録の存在までの推定は史料的な限界ゆえに控えて、後日の課題としたい。

2025年6月2日月曜日

日向国の古代道路関連遺跡 (水野実教授退官記念号)

噂では知るものの、その論文を見る機会がないものに、

 日向国の古代道路関連遺跡 (水野実教授退官記念号)

山近 久美子 収録刊行物 防衛大学校紀要. 人文科学分冊 防衛大学校紀要. 人文科学分冊 108, 75-106, 2014-03 [防衛大学校] 


がある。防衛大学校にアクセスするが、対外秘なのか当該論文のみならず、各論文も読むことはできない。


残念!!


2025年5月26日月曜日

古代の健脚:640キロメートルを4日間で走れるか?

 かって、日本古代史の大家に向かって、

海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになりますが、本当ですか?」

と不躾な質問をしたことがある。江戸時代の赤穂浪士並みであるからだ。


*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km
延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>」

この計算方式を容易に信じがたいのは、上村俊洋氏が論じるように、
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp) 
からである。
 はたして、この距離を走り抜けることが可能であろうか。
直木孝次郎先生にしろ、青木和夫氏にしろ、大宰府の使者が昼夜を分かたず走りぬけば、十分に可能だとご回答になっているようだ。
100歩譲って、馬で疾走したイメージをお持ちであるとしても、その時間で平城京に到着できるだろうか。
私が同意できないのは、
理由①古代日本の在来馬はサラブレッド種のような競走馬ではなく、小型で足がずんぐりとして、高さ1,3メールほどであること。
理由②馬は夜間に走らない事
理由➂最大スピードが15㎞であり、その時速が1時間続くわけもなく、平均平均5㎞ほどである事。

大家の学説を尊重するものの、はたしてこの点は歴史記述にこだわりすぎであるように思えてならない。博雅の士の教えを受けたい。

なお、陸奥国多賀城から京までも7日間の距離であったというが、はたして真実であろうか。

<参考記事①


アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によって紀元前5世紀に敷設された幹線「王の道」の全長はthe capital, Susa首都スーサ)から小アジアのサルディス( Sardis in Asia Minor.)に至る2,699 km(1,677マイル

この約2700㎞は

1,馬で約9日間

2,徒歩で約90日

を要したという。諺に「Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds」。


<参考記事②>矢野圭吾氏報告

江戸 → 赤穂 距離 約155里/約620Km

  1. 殿中刃傷事件の日、浅野内匠頭長矩が切腹をした日
    元禄14年3月14日=1701年4月21日(木曜日)
  2. 刃傷事件を知らせる最初の早駕籠が赤穂へ到着した日
    元禄14年3月19日=1701年4月26日(火曜日)
  3. 赤穂城明け渡しの日
    元禄14年4月19日=1701年5月26日(木曜日)
  4. 吉良邸へ討入りをした日、吉良上野介義央が亡くなった日
    元禄15年12月14日寅の上刻=1703年1月30日(火曜日)
    現在でいう時間帯=1703年1月31日(水曜日)午前3時半ころ討入り
    ※元禄15年8月の翌月に閏8月がありましたので、刃傷事件から1年10ヶ月で討入りということになります。
  5. 義士たちが四大名家へ預けられた日、大石内蔵助らが細川邸へ到着した日
    元禄15年12月15日丑の刻=1703年1月31日(水曜日)
    現在でいう時間帯=1703年2月1日(木曜日)午前2時ころ
  6. 義士が切腹をした日
    元禄16年2月4日=1703年3月20日(火曜日)                    (『忠臣蔵寺子屋』第3回、2004年7月29日)

2025年5月25日日曜日

渡来系牛馬皮革加工業者と日向国児湯郡平群郷と韓家郷

 先に、日向国児湯郡韓家郷は約1000人の渡来系住民の居住地であったという仮説を提出した。それは考古学的エビデンスを伴わない暴論でもあるので、今後の考古学的発掘成果に期待する。私の願いは仮説提出にある。検証結果、正解であればそれはそれ、たとえ間違いであっても多くの先行する仮説の残骸の上に真実が見えて来ると信じる。

*******************

それを踏まえて、まず一つの木簡に注目したい。

(資料①)に

○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉卅\○又別平群部美支□・故是以○皆者亡賜而○偲」

とあり、また、

(資料②)に、

日向国牛□〔皮ヵ〕四□」

とある記事である。この資料②の空欄は、通説通りに

「日向国牛皮4枚」

と埋めても大過ないに違いない。

資料①は文意不明であるが、断片的な情報として、奈良文化財研究所HP「木簡庫」が指摘するように

1、地名:日向久湯評

2,人名:漆部佐俾支(Safiki)

3、人名:平群部美支□((Miki)(名前を2文字とするか、3文字とするかは存疑)

と理解することに首肯したい。


上記したように、

4、資料②「卅」は「牛皮」と解すべきか(奈良文化財研究所)

となると、この牛皮はどこの牛牧から持ってきたかが、我々の関心である。

その手掛かりは、『延喜式』巻28,兵部省に見る

日向国〈野波野馬牧、堤野馬牧、都濃野馬牧、野波野牛牧、長野牛牧、三野原牛牧」

とあるこの3つの牛牧からであっただろうが、現段階で文献資料の限界と考古学的未発掘などで、それらの比定地は不明である以上、これ以上の探求は止めておきたい。

その上で、問題は、どこで誰が牛を飼養し、誰が牛から、どのような器具で皮を剥いだか、さらにはその皮を誰が、いつ、どのようになめして、誰が京に、どのようにして運搬し、どこに貢納したかを考えたい。






 資料①にせよ資料②にせよ、様々な視点からのアプローチがあるものの、我々の論点を錯綜させないために、まず関心を資料①に存在する「平群」に集中したい。
 資料①の「平群部」は日向国児湯郡平群郷」(現在の西都市大字平群付近)の住民であったか、さもなくばその地と深い縁を有する人々であっただろう。

 そもそも牛は日本列島に存在しなかった。宮路淳子の指摘あるように、

「ウシ骨の明確な出土事例は、南郷大東遺跡(奈良県御所市)の五世紀中ごろ以前 (初期須恵器︱TK208型式)の層位からのものであり、日本列島にウシが移入さ れ人の生活に関わるようになるのは、五世紀以降であることは明らかである」(宮路淳子、「古墳時代におけるウシ飼養に関する予備的研究」『奈良女子大学文学部研究教育年報』第16号、)

だという。

そして、宮路淳子氏が的確に要言したように

「 古墳時代には、皮革生産が直接的には朝鮮半島からの技術の移入によって開始さ れた。小林行雄は『日本書紀』巻十五 仁賢六年の「遣日鷹吉士使高麗召巧手者。(中 略)是歳、日鷹吉士還自高麗、献工匠須流枳、奴流枳等。今大倭国山辺郡額田邑熟皮高麗、是其後也」という記述から、大倭国山辺郡額田邑に住む革公人たちの技術が高 麗から渡来した工匠によって伝えられたことを主張していることに注目した(小林 、一九六二)。遺物としての革製品は、奈良県當麻町三ツ塚古墳群の七世紀末頃の改葬 墓から漆塗革袋が出土している(千賀久二〇〇四)など、衣服、馬具、武具、楽器など、 動物の皮革はさまざまな用途に用いられていたと考えられる。 」(宮路、同上)(小林行雄、『古代の技術』正、 塙選書、1962)

であった。

 このことを念頭に置きつつ、ここで、唐突であるものの、『紀氏家牒』逸文に注目したい。田中卓氏が紹介する『紀氏家牒』は奈良末~平安初期に成立したといわれ、逸文26条を見出している。その中の3条に、「平群」の語句を見る。

(資料③)「家牒曰、六男平群木兎宿祢、歴仕応神・仁徳・履中三代天皇、執国政。凡寿殆一百五十余歳。初木兎宿祢与仁徳天皇同日生。神功皇后政六十年然後、家大倭国平群県平群里。故称平群木兎宿祢。是平群朝臣・馬工連等祖也。」


(資料④)

家牒曰、家大倭国平群県平群里。故称曰平群木兎宿祢。是平群朝臣・馬工連等祖也。

又云、額田早良宿祢男、額田駒宿祢、平群県在馬牧、択駿駒養之。献天皇。勅賜姓馬工連、令掌飼。故号其養駒之処曰生駒。又云額田駒宿祢男、□□馬工御連。

(資料⑤)

紀氏家牒曰、平群真鳥大臣弟、額田早良宿祢家、平群県額田里。不尋父氏、 負「母氏」姓額田首 田中卓注:「母氏」は脱字か>


当面の我々の関心に限定すれば、この記事からは推測できることは、平群郡平群里を出身地とする平群氏の一族 が生駒山東麓の馬牧を管理したこと、そして大倭国平群郡額田郷を出身地とする平群氏系額田首も馬の飼育を担当していたことは間違いない。そこで平群氏の職掌が馬飼育であったとすれば、当然に思い起こされるのは、先の引用にも言及された『日 本書紀』仁賢六年是歳条の

「日鷹吉士還 、自高麗、献工匠須 流枳・奴流枳等。今倭国山辺郡額田邑熟皮高麗、是其後也」

とある熟皮高麗の渡来記事である。「今倭国山辺郡額田邑熟皮高麗、是其後也」の箇所は日本書紀編纂時の追記である。

それを知った上でも、熟皮とは皮革の加工技術 であり、日本書紀編纂時の共通理解として、朝鮮半島出身の渡来系住民(高句麗出身)が額田邑で動物皮革技術者であったという事実である。彼らの職掌は単に熟皮だけではなく、馬の繁殖・飼養・放牧・管理などでもあったことは想像に難くない。

しかも、『「古事記』安康天皇 条

「於是,市辺王之王子等,意祁王・哀祁王二柱 聞此乱而逃去。故到山代苅羽井,食御粗之時, 面黙老人来,奪其粗。爾其二王言「不惜根。 然汝者誰人。」答日「我者山代之猪甘也。」故 逃渡玖須婆之河,至針間国,入其国人・名志 自牟之家,隠身,役於馬甘牛甘也。」

とあるように、馬飼育者は同時に牛飼育舎であったことにも注目しておきたい。


『延喜式』巻28、兵部省式には牛牧(含む馬牛牧)が十三ヶ所に置かれたとある.

[諸国馬牛牧

駿河国〈岡野馬牧、蘇弥奈馬牧、〉 

相と摸国〈高野馬牛牧、〉 

武蔵国〈檜前馬牧、神埼牛牧、〉 

安房国〈白浜馬牧、鈖師馬牧、〉 

上總国〈大野馬牧、負野牛牧、〉 

下總国〈高津馬牧、大結馬牧、木嶋馬牧、長洲馬牧、浮嶋牛牧、〉 

常陸国〈信太馬牧、〉 

下野国〈朱門馬牧、〉 

伯耆国〈古布馬牧、〉 

備前国〈長嶋馬牛牧、〉 

周防国〈竈合馬牧、垣嶋牛牧、〉 

長門国〈宇養馬牧、角嶋牛牧、〉 

伊予国〈忽那嶋馬牛牧、〉 

土佐国〈沼山村馬牧、〉 

筑前国〈能臣嶋牛牧、〉 

肥前国〈鹿嶋馬牧、庇羅馬牧、生属馬牧、柏嶋牛牧、■【テヘン+遷】野牧、早埼牛牧、〉

肥後国〈二重馬牧、波良馬牧、〉 

日向国〈野波野馬牧、堤野馬牧、都濃野馬牧、野波野牛牧、長野牛牧、三野原牛牧、〉

右諸牧馬五六歳、牛四五歳、毎年進左右馬寮、各備梳刷剉、其西海道諸国、送太宰府、但帳進省」

とあるように、日向国には野波野馬牧と野波野牛牧を同時に置いたことも我々の推測を裏切らないだろう。

そこで、再掲するが、 『倭名類聚抄』にある日向国児湯郡内の八つの郷を列挙すると、

①穂北郷

②大垣郷

③三宅郷

④覩唹唹

⑤三納郷

⑥平群郷

⑦都野郷

韓家郷


であった。我々の仮説は次の通りである。
「平群郷には、半島由来の渡来人平群氏もしくは平群氏系額田首一族が馬・牛の繁殖・飼養、そして皮を剥ぐなどに従事していた。
そして韓家郷には、その馬や牛、さらには鹿など動物皮革を加工する渡来系技術者集団が居住していた。」

『延喜式』内寮式などに記載された動物皮革の加工法に関する管見は、後日に譲る。

蛇足となるが、この日向国で作られた動物皮革製品はなにも正倉院蔵のような貴人の装身具にだけ作られたものではなく、わざわざ日向国に馬牧や牛牧を配置し、そのために渡来系皮革技術者を多数投入した最大の理由は、戦闘が続く隼人との闘いに備えるための武具制作の為であったと考えている。換言すれば、軍団制を念頭に置くことが求められよう。天長3年(826)に軍団制が廃止されるまで、日向国の牧は

なお、それを傍証するように、資料①の「漆部」にも注目する。なぜならば、正倉院に現存する牛皮製品の大多数に漆が塗布されているからである。したがって動物皮革加工技術と漆塗技術とは一体化して考えなくてはならない。

<参照記事>
出口公長「正倉院宝物に見る皮革の利用と技術」

<参考情報>

『大和志』

額田邑 「嘉幡村西十町許有皮工邑、隣平群」


<参考情報>養老令廐牧令

1,廐牧令第一 廄細馬條:凡廄。細馬一疋。中馬二疋。駑馬三疋。各給丁一人穫丁每馬一人。日給細馬。粟一升。稻三升。豆二升。鹽二夕中馬。稻若豆二升。鹽一夕。駑馬。稻一升。乾草各五圍。木葉二圍。【周三尺為圍。】青草倍之。皆起十一月上旬飼乾。四月上旬給青。其乳牛。給豆二升。稻二把取乳日給。

  1. 廄牧令第二 馬戶分番條:凡馬戶。分番上下。其調草。正丁二百圍。次丁一百圍。中男五十圍。
  2. 廄牧令第三 官畜條:凡官畜。應請脂藥療靄病者。所司預料須數每季一給。
  3. 廄牧令第四 牧馬帳條:凡牧馬長帳者。取庶人清幹。堪檢校者霽為之。其外六位及勳位。亦聽通取。
  4. 廄牧令第五 牧每牧條:凡牧。每牧置長一人。帳一人每群牧子二人。其牧馬牛。皆以百為群。
  5. 廄牧令第六 牧牝馬條:凡牧牝馬。四歲遊牝。五歲責課。牝牛三歲遊牝。四歲責課。各一百每年課駒犢各六十其馬三歲遊牝而生駒者。仍別簿申。
  6. 廄牧令第七 每乘駒條:凡牧馬牛。每乘駒二疋。犢三頭各賞牧子稻廿束其牧長帳。各通計所管群賞之。
  7. 廄牧令第八 死耗條:凡牧馬牛死耗者。每年率百頭論除十。其疫死者。與牧側私畜相准。死數同者。聽以疫除。
  8. 廄牧令第九 失馬牛條:凡在牧失官馬牛者。並給百日訪覓。限滿不獲。各准失處當時估價十分論。七分徵牧子三分徵長帳如有闕及身死。唯徵見在人分其在廄失者。主帥准牧長飼丁准牧子失而復得。追直還之。其非理死損。准本畜徵填。
  9. 廄牧令第十 駒犢條:凡在牧駒犢。至二歲者。每年九月。國司共牧長對。以官字印印左髀上犢印右髀上並印訖。具錄毛色齒歲為簿兩通一通留國為案。一通附朝集便申太政官。
  10. 廄牧令十一 牧地條:凡牧地。恒以正月以後從一面以次漸燒。至草生使遍。其鄉土異宜。及不須燒處。不用此令。
  11. 廄牧令十二 須校印條:凡須校印牧馬者。先盡牧子不足。國司量須多少取隨近者充。
  12. 廄牧令十三 牧馬應堪條:凡牧馬。應堪乘用者。皆付軍團於當團兵士內簡家富堪養者充。免其上番及雜驅使。
  13. 廄牧令十四 須置驛條:凡諸道須置驛者。每三十里置一驛若地勢阻險。及無水草處。隨便安置。不限里數其乘具及蓑笠等。各准所置馬數備之。
  14. 廄牧令十五 驛各置長條:凡驛。各置長一人取驛戶內家口富幹事者為之。一置以後。悉令長仕若有死老病。及家貧不霖堪任者。立替。其替代之日。馬及鞍具欠闕。並徵前人若緣邊之處。被蕃賊抄掠非力制者。不用此令。
  15. 廄牧令十六 置驛馬條:凡諸道置驛馬大路廿疋。中路十疋。小路五疋。使稀之處。國司量置。不必須霖足。皆取筋骨強壯者充。每馬各令中中戶養飼若馬有闕失者。即以驛稻市替。其伝馬每郡各五。皆用官馬若無者。以當處官物市充。通取家富兼丁者付之。令養以供迎送。
  16. 廄牧令十七 水驛條:凡水驛不配馬處。量閑繁驛別置船四隻以下。二隻以上隨船配丁。驛長准陸路置。
  17. 廄牧令十八 乘驛條:凡乘驛及伝馬應至前所替換霽者。並不得騰過其無馬之處。不用此令。
  18. 廄牧令十九 軍團官馬條:凡軍團官馬。本主欲於鄉里側近十里內調習霽聽。在家非理死失者。六十日內備替。即身死。家貧不堪備者。不用此令。
  19. 廄牧令二十 驛伝馬條:凡驛伝馬。每年國司檢簡。其有太老病。不霖堪乘用者。隨便貨賣。得直若少。驛馬添驛稻伝馬以官物市替。
  20. 廄牧令廿一 公使乘驛條:凡公使須乘驛及伝馬若不足者。即以私馬充。其私馬因公使致死者。官為酬替。
  21. 廄牧令廿二 乘伝馬條:凡官人乘伝馬出使者。所至之處。皆用官物准位供給。其驛使者。每三驛給。若山險闊遠之處。每驛供之。
  22. 廄牧令廿三 國郡條:凡國郡所得闌畜。皆仰當界內訪主。若經二季無主識認者。先充伝馬若有余者出賣。得價入官。其在京。經二季無主識認者。出賣。得價送贓贖司後有主識認勘當知實。還其本價。
  23. 廄牧令廿四 闌遣物條:凡闌遣之物。五日內申所司其贓畜。事未分決在京者付京職斷定之日。若合沒官出賣。在外者准前條。
  24. 廄牧令廿五 官私馬牛條:凡官私馬牛帳。每年附朝集使送太政官。
  25. 廄牧令廿六 官馬牛條:凡官馬牛死者。各收皮腦角膽若得牛黃者。別進。
  26. 廄牧令廿七 因公事條:凡因公事乘官私馬牛以理致死。証見分明者。並免徵。其皮宍。所在官司出賣。送價納本司若非理死失者。徵陪。
  27. 廄牧令廿八 官畜條:凡官畜。在道羸病。不堪前進者。留付隨近國郡養飼療救。草及藥官給。差日遣專使送還所司其死者。充當處公用。


***********************

<参考文献>

1, 佐伯有清「馬の伝承と馬飼の成立」(同『古代史への道』〈吉川 弘文館 一九七五年〉 初出一九七四年) 

2,岸俊男「『額田部臣』と倭屯田」(同『日本古代文物の研究』〈塙書房  一九八八年〉 初出一九八五年) 

2, 本位田菊士「額田部連・額田部について」(『続日本紀研究』二三八  一九八五年) 

3,狩野久「額田部連と飽波評」(同『日本古代の 国家と都城』〈東京大学出版会 一九九〇年〉 初出一九八四年) 

 5,森公章「額田部氏の研究」(『国立歴史民俗博物館研究報告』八八  二〇〇一年) 


(資料①)

RLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AWHHG14000101
木簡番号1497
本文・○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉牛卅\○又別平群部美支□・故是以○皆者亡賜而○偲
寸法(mm)(161)
58
厚さ6
型式番号019
出典飛鳥藤原京2-1497(木研25-26頁-(46)・飛17-39上・飛16-13上(55))
文字説明表面上部の余白に不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。
形状上削り、左削り、右削り、下二次的切断(表側から刃を入れる)、表面下部一部剥離。
樹種
木取り板目
遺跡名藤原京左京七条一坊西南坪
Fujiwara Capital (Left Capital, Seventh Row, First Ward, Southwest Block)
所在地奈良県橿原市上飛騨町
調査主体奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
Department of Asuka and Fujiwara Palace Sites Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数飛鳥藤原第115次
遺構番号SX501
地区名5AWHHG14
内容分類文書
国郡郷里日向国児湯郡日向国久湯評
人名漆部佐俾支・平群部美支□
和暦 
西暦 
遺構の年代観694-710
木簡説明本木簡はSX五〇一南岸よりもやや南方で出土したが、土層の類似から便宜上SX五〇一出土木簡に含めた。上端・左右両辺削り。下端は表側から刃を入れて二次的に切断する。また、下端より約五〇㎜の位置には、表側に向かってへし折ろうとした痕跡が認められる。下端の切断と同様、やや左下がりとなっており、一連の措置の可能性が高い。表側は上端より約四〇㎜あけて文字を記すのに対して、裏側は上端からただちに文字を記す。表裏は同筆とみてよいが、内容的に関連するかどうかは不明。このほかにも、釈文には掲げなかったが、表側上部の余白には不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。一行目の「日向久湯評」は『和名抄』日向国児湯郡に相当する。「久(く)」と「児(こ)」の通用は珍しくない。「人」字以下は下端の二次的切断にともなって剥離する。二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。「治奉」は貢進の意で使用したものであろうか。「牛」は牛皮であろう。日向国は牛・馬の官牧が多く存在したことで著名。『日本書紀』持統三年(六八九)正月壬戌条には、筑紫大宰は隼人一七四人・布五〇常・鹿皮五〇枚とともに牛皮六枚を献上したとあり、平城宮東院の東南隅部では日向国から牛皮四枚を貢進した際の荷札木簡二点が出土している(『平城木簡概報六』六頁下)。牛皮三〇枚が宮城四隅疫神祭で幣帛として利用された可能性を含めて、検討を要する。三行目の「平群了」は、児湯郡に平群郷が存在することと関係しよう。一方、裏側は右端に一行分の記載しかなく、表側と異なって上端部から文字が記されている。「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」と訓読するか。


あるいは

(資料②)


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALGCJ67000005
木簡番号0
本文日向国牛□〔皮ヵ〕四□
寸法(mm)191
24
厚さ6
型式番号033
出典城6-6下(64)
文字説明 
形状 
樹種
木取り柾目
遺跡名平城宮二条条間大路南側溝
Heijō Palace (Second Row, Avenue Between the Rows, South Side Ditch)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数44
遺構番号SD5785
地区名6ALGCJ67
内容分類荷札
国郡郷里日向国
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観712-715
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6ALGCJ67000005








2025年5月2日金曜日

天平六年(734)に大阪府交野市付近を襲った地震の紹介

1)以下は、都司嘉宣 氏(深田地質研究所)の研究紹介である。

「『小松寺縁起』(大阪府交野市)の元となった京都・教王護国寺 に保存された『観智院史料』の翻刻文を調査し,『縁起』が信頼度の高い文書であることが確証さ れた.『縁起』には,和銅五年(712)の小堂の開創以来,天平六年(734),寛和元年(985),永長二年(1097) 十一月二十日,および承徳三年(1099)八月二十七日に地震があって,寺院の建物が被害を受けたと 記録されている.この四回の地震のうち,最初の二個の地震は,これまで知られていなかった地 震である.3番目の地震は,永長元年(1096)十一月二十四日の東海地震の約一年後に起きており, また4番目の地震は,承徳三年(=康和元年,1099)一月二十四日の南海地震の7ヶ月後に起きてい る.ともに海溝型巨大地震に誘発された内陸地震と理解される.小松寺は丘陵地帯の中にあった 寺院であるが,生駒断層の北端付近で東に分岐する交野断層の南方わずか1kmの所に位置してお り,生駒断層,あるいは交野断層を起震断層とする地震であったと理解することができる.小松 寺のあった場所は現在ゴルフ場となっているが,その場所には石碑が建てられている.」(「大阪府交野市小松寺の古代の四度の地震記録」『深田地質研究所年報』No.19,p. 71-79 、2018年)


2) 郡司氏の指摘通りに、確かに天平6年4月7日(ユリウス暦734年5月14日)に大地震が発生したことは『続日本紀』にも、その記録がある。

天平六年(734)夏四月

1)夏四月戊戌(7日)、地大震、壞天下百姓廬舍。壓死者多。山崩川壅、地往往坼裂、不可勝数。

2)癸卯(12日)遣使畿內七道諸國、検看被地震神社。
3)戊申(17日),詔曰:「今月七日,地震殊常,恐動山陵。宜遣諸王、真人,副土師宿禰一人,検看諱所八處及有功王之墓。」又詔曰:「地震之災,恐由政事有闕。凡厥庶寮勉理職事。自今以後,若不改勵,隨其状迹,必將貶黜焉。」


畿内: 民家倒潰し圧死多く,山崩れ,川塞ぎ,地割れが無数に生じた.生駒断層帯の活動によるものか?」
そもそも日本列島に分布する長さ約20km以上の活断層帯は約110本。その内、近畿地方では 22 本の活断層帯が発見されている。国土交通省の調査では、地震発生確率が高い活断層として,65 琵琶湖西岸 断層帯,75奈良盆地東縁断層帯,80上町断層帯,81中央構造線断層帯,82山崎断層帯を挙げている。そして地震発生確率がやや高い活断層として,67養老-桑名-四日市断層帯,69鈴 鹿西縁断層帯,70頓宮断層,71布引山地東縁断層帯,73三方-花折断層帯,77生駒断層帯, 78 三峠-京都西山断層帯,79六甲・淡路島断層帯,83中央構造線断層帯(紀淡海峡-鳴門海峡) がある」

「寒川(1986)に よって5世 紀以降に1.2~18 mの 上下変位を伴う活動が生じたことが明らかにされ ている、本 セグメント北部の生駒断層北端部では,平 成 8年 度に実施した トレンチ調査により,2千 年前以降で 奈良時代より古い活動が検出された(下川ほか,1997). したがって,本 セグメントの最新活動時期は5~7世 紀 に限定される可能性が高い.ト レンチ調査の結果から, この活動に伴う実変位量は2.2m以 上と推定される.た だ し,誉 田断層に関しては1510年 の地震で活動した可 能性が指摘されており(寒川,1986),生 駒断層以北とは 異なる活動セグメントをなしている可能性が残る」( 地質調査所活断層研究グループ「近畿三角帯における活断層調査-主 要活断層の活動履歴と地震危険度」『第 四紀研究(The Quaternary Research)』 39 (4) p. 289-301 、  Aug. 2000)

であるという。つまり、天平6年の生駒地震によって、地面の隆起や陥没など(「山崩川壅、地往往坼裂」が「1.2~18 mの 上下変位」を予想されるという。その人的被害も甚大であり(「壞天下百姓廬舍、壓死者多」)、しかも「検看被地震神社」とあるので、神社仏閣などの倒壊なども数多く発生したようだ。
その一端は、
「『続日本紀』には天平六年の地震で、山陵が動いたかもしれない という記事があるのですが(『続紀』天平六年四月戊申条)、実際に誉田 山古墳の墳丘の裾を生駒断層帯が走っており、前方部が断層で切ら れています。誉田山古墳は、五世紀にできた巨大古墳ですけれども、 五世紀以降の地震で動いていることは間違いない。生駒断層帯につ いて、四條畷でトレンチを入れてみると、断層の直上の土層で炭素 年代により平安時代に遡る遺物が検出されています。ということで、 五世紀以降、平安時代までの間に生駒断層帯が動いた可能性がある ととして、この断層を焦点に考えることにしました」(今頭勝紀「日本古代史研究の方法的模索 」fulltext.pdf
とある。
 ここでの関心は災害復旧にある。
突飛な想像になるが、『行基年譜』の「天平十三記」に見る行基の活動は,約三〇年間に橋六,道一,池十五,溝六,… 満濃
池はその後,決壊と修築を繰り返したが放置されたま

図表1-1-3 行基が整備したインフラ
図表1-1-3 行基が整備したインフラ
国土交通省作成






養老-桑名断層は745(天平17)年地震(M ≒7.9)と1586(天正13)年地震(M ≒7.8 ±0.1),山崎断層は 868(貞観 10)年播磨地震(M≧7.0),有馬-高槻断層帯・六甲山地南縁 活断層帯・淡路島北部東縁活断層帯・四国の中央構造線活断層帯は 1596(慶長1)年伏見桃山 地震(M ≒7.1/2±1/4)とこの前後の地震,三方断層帯北部(日向断層を含む)と花折断層北部 は1662(寛文 2)年若狭・近江地震(M ≒7.1/4±1/4),木津川断層は 1854(安政 1)年伊賀 地震(M ≒7.1/2±1/4),郷村断層と山田断層は 1927(昭和 2)年北丹後地震(M7.3),野島 断層は1995年兵庫県南部地震(M7.3)を引き起こして活動した.また,琵琶湖西岸断層帯(堅 田断層)は1185(元暦2)年近江地震(M≒7.4)を引き起こした可能性がある.こ






 」