内山寺古事
(一名、筑前国三拾三所道中案内記)
慈悲の栞
直方町旧名東蓮寺と称し元倉久村真言宗内山寺の末寺にして、(中略)、霊(ママ)武天皇拾三年大宰大弐(ママ)藤原の広嗣反しけれは大野東人勅を奉して討伐に向かるときここ(多賀神社)に本陣を構へたりと云へり
大野東人が本陣を構えた場所の口伝オーラルヒストリーである。
内山寺古事
(一名、筑前国三拾三所道中案内記)
慈悲の栞
直方町旧名東蓮寺と称し元倉久村真言宗内山寺の末寺にして、(中略)、霊(ママ)武天皇拾三年大宰大弐(ママ)藤原の広嗣反しけれは大野東人勅を奉して討伐に向かるときここ(多賀神社)に本陣を構へたりと云へり
大野東人が本陣を構えた場所の口伝オーラルヒストリーである。
万葉集と漁期とは一見して全く無縁である。しかし、だからこそ、数多い万葉集研究に活用されないままであった。
その主な理由は万葉集研究者の大半が「ロッキングチェア学派」であるからだ。
今、その一つとして、252番歌を取り上げたい。周知のとおり、この歌群は「柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首」と呼ぶ。
[題詞](柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首)
荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行くわれを
*藤江
集中に、藤江を探ると
(1)「やすみしし わが大君の 神ながら 高知らします 印南野の大海(「おふみ)、邑美」の原の 荒栲の藤井(藤江)の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船散動き 塩焼くと 人そ多になる 浦 を良み 諾も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く 在り通ひ 見さくもしるし 清き白浜」【938番歌、山部赤人】
とあり、「印南野の邑美の原の 荒砂の藤井(藤江)の浦に」に見る如く「白き海浜に作られた港津」であったらしい。その位置は不明であるが、明石市藤江字別所にある藤江別所遺跡付近を想定してよい。
「この遺跡は藤江川の河口から約300mさかのぼった、標高約1~2mと比較的低地に位置しています。このあたりまでは、海が入り込んでいたものと考えられています。」(参考文献:『明石市立文化博物館 1996 『明石市文化財調査報告2:明石市 藤江別所遺跡』明石市教育委員会 』)
とある。浦とあるので、「海・湖・池などの、湾曲して陸地に入り込んだ所」(岩波古語、193頁)であり、ここに鱸(鈴木)や鮪などを目当てとする海人たち漁民集団の居住地があったらしい。
この海人たちは、下記の2首にも描写されている。
(2)「沖つ波 辺波静けみ 漁(いざ)りすと 藤江乃浦に 船そ動ける」(939番歌、山部赤人)
(3)「白栲の藤江の浦に漁する海人とや見らむ旅行く 吾を」(3607番歌、遣新羅使)
*鱸(鈴木)
さて、ここで注目したいのは、漁期である。
兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)によると、現在の鱸漁は毎年5月から10月まで、そして鮪をサワラだと仮定すると9月から12月までの漁獲、そしてハマチだとすれば、その漁期は10月から12月だという(明石市に本所を置き、県下の沿海地区を中心に19ヶ所の事業所を有する兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)のHP、http://www.hggyoren.jf-net.ne.jp/Dictionary/Seto-Naikai-Winter.html)による。
すでに慧眼な方であれば、私の狙いを察知しておいでだろうが、「歌が詠まれた時期」の推測材料に注目する。
つまり、252番歌であれば、柿本人麻呂は5月から10月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定できる。
そして938番歌であれば、山部赤人は10月から12月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定してよい。
生前、青木先生にお目にかかる機会は僅かであったが、青木先生の第1高等学校時代の恩師である五味智英先生のお導きであった。当然ながら、若輩者の私は路傍の石柱のように佇んでいるばかりであった。
さて本稿を検討するに必読の論文は、下記の通りである。
①坂本太郎『上代駅制の研究』 (『坂本太郎著作集』第8巻、「 古代の駅と道」吉川弘文館、1989年
②田名網宏『古代の交通』
③田中卓『神宮の創始と発展』263頁
④直木孝次郎「大宰府・平城間の日程」『奈良時代史の諸問題』塙書房、1968年
⑤青木和夫「駅制雑考」『日本律令国家論攷』岩波書店、1992年、114-133頁
『続日本紀』では、天平12年の藤原広嗣挙兵が好個の資料となる。
8月癸未【29日),大宰少貳-從五位下-藤原朝臣-廣嗣上表,指時政之得失,陳天地之災異。因以除僧正-玄昉法師、右衛士督-從五位上-下道朝臣-真備為言。其上表文,言玄昉、真備為姦雄之客,覆國之人云云,具在『松浦廟宮先祖次第併本緣起』。然近世以來,有偽書之疑。下道真備,後改吉備真倍。
九月,乙酉朔丁亥【3日),廣嗣遂起兵反。
敕,以從四位上-大野朝臣-東人,為大將軍。從五位上-紀朝臣-飯麻呂,為副將軍。軍監、軍曹,各四人。徵發東海、東山、山陰、山陽、南海五道軍一萬七千人,委東人等,持節討之。
この記事を忠実に読めば、8月29日に挙兵が在り、翌月3日付けで鎮圧軍を大宰府へ送る手はずが整ったとある。
この電光石火のごとき朝廷の対策は、大宰府からの情報の速さの結果であるが、はたして事実であろうか。この点に関する先行研究では、例えば坂本先生・直木先生・青木先生などはほぼ事実であると論じられてきた。
私が青木先生にお伺いしたいのは、制度(「事速者一日10駅以上」<公式令>)ではなく、だれが、どのような経路で、どのような道路整備もしくは海路整備で、いかにして情報伝達が可能であったかを考察したい。
さて、これが実現するためには、次のような条件が求められるだろう。
1,大宰府から北九州の港、もしくは豊前国府までの陸路、そして平城京までの海路よび港湾施設の整備
2,瀬戸内海を3日で航行するスピードの速い船舶と迅速な船員確保、そして食料・水積載
4,加えて、瀬戸内海を航行するに順風と穏やかな波など天候条件
<陸路であれば>
海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになる。
*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km)
<延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>
上村俊洋氏が論じるように、
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp)
とも推定できる。
もっとも養老4年(720)の大隅国守殺害事件も視野に入れておきたい。
安曇は安積とも安住とも表記されるが、それは「アズミ」の読みが定着したのちのことである。
天平勝宝2年4月12日の日付を持つ「東大寺諸荘文書併絵図など目録」と呼ばれる文書の中に
「民部省符1通4至 (東安曇江 南堀江 西百姓家 北松原) 地4町」
という官符がある。今、京都市に水源を発し、琵琶湖にそそぐ「安曇川」と書き「アドガワ」と呼ぶ川がある。そして千田稔氏の論文(「古代港津の歴史地理学的考察」『史林』1970年)に学んだことであるが、地理局図籍課発行『明治19年大阪実測図』には、「アドエ」と表記される地名がある。千田氏の仮説によれば、この「アドエ」が上記の「安曇江」であるという。
つまり、「安曇」は「アド」と読む。
(参考資料日本地名大辞典 68頁、1979年))