2024年12月8日日曜日

古代九州の自然災害リスト(4訂版)

 

*天武7年(678) 筑紫国地震

⇒小郡市上岩田遺跡にあった官衙が地震で崩壊したらしく、その後小郡官衙遺跡へと移動した。

広報おごおり古代官道KohoR0304_02-0.pdf


*大宝元年8月21日-701年10月1日

⇒『続日本紀』

「参河。遠江。相摸。近江。信濃。越前。佐渡。但馬。伯耆。出雲。備前。安芸。周防。長門。紀伊。讃岐。伊予十七国蝗。大風、壊百姓廬舍、損秋稼」

とあり、中国・四国・近畿・北陸・信越・東海などの各地に被害が報告されているが、なぜか大宰府に関する言及なし。大風であれば、通例、西から東へと暴風雨圏が移動していくが、九州地方を経過した後、急速に発達して、西日本から東日本へと被害を拡大させたか。近畿地方は近江と紀伊のみ名を記し、他地域からの報告を掲載していない。



*慶雲元年(704)12月辛巳条

辛未(20日)、大宰府言、去秋大風、拔樹傷年穀。

→「往にし秋」とは、同年8月辛巳(28日)条に「周防国大風、抜樹傷秋稼」と連動する。台風による暴風雨と推測されるので、ルートからして、この8月28日の数日前のことか?


*慶雲3年(706)7月己巳条(7月28日ー706年9月9日)

⇒大風九州諸国穀物・樹木

己巳、大宰府言、所部九國、三嶋、亢旱大風、拔樹損稼、遣使巡省、因免被災尤甚者調役。

→慶雲2年6月条に

丙子、太政官奏、比日亢旱、田園燋卷、雖久雩祈、未蒙嘉澍。請、遣京畿內淨行僧等祈雨、及罷出市廛、閇塞南門、奏可之。」

とあるように、大宰府においても寺院による祈雨祭などが実施されただろう。

→この文にある「調」とあるのは、不可思議。慶雲3年2月庚寅条に、

「その大宰の所部は、皆、庸を収めることを免す」

ともある。この解釈は後考を俟つ。


* 養老元年 (717年)

⇒ 桜島湧出 『三国名勝図会』


*養老2年 (718年)

⇒ 桜島湧出 『桜島池田氏蔵年代記』


*養老7年(723)4月壬寅条

夏四月、乙未朔壬寅、大宰府言、日向、大隅、薩摩三國士卒、征討隼賊、頻遭軍役。兼年穀不登、交迫飢寒。謹案故事、兵役以後、時有飢疫。望降天恩、給復三年、許之。

→「年穀不登」の原因は何であっただろうか。新古典文学大系注のように、「蝗害」も想定できるだろうし、旱も想定される。しかし、「交迫飢寒」とあるので、冷害であったと考えらないだろうか。

→冷害には、「幼穂形成期より開花期までの冷温,特 に 穂孕期の冷温によって花粉の発育が不良となり,不 稔を 多発 して減収するもの」と「播種後より出穂までの各時期の冷温によ る生育遅延の総和として出穂が遅延し,た とえ開花受精 が順調に行われても登熟後期に秋冷にあって未登熟米を 多発するか,あ るいは出穂が遅延しなくても登熟期間に 冷温が続いて登熟が遅延し未熟米を多発して減収する」2タイプがあるという。

「冷害の型は国によって異なるが,日 本では障害型冷害冷温の出現時期と冷害発生の過程と遅延型冷害の2型 に大別されている。同一年次にこの 両型が発生した場合に混合型または併行型冷害,冷 涼気 象によるいもち病の激発が減収の主因となった場合にい もち型冷害 という用語が用いられることもある。 障害型冷害は「である。この時期の冷温は頴花の 発育を抑制して一穂頴花数の減少や千粒重の減少を招く こともあるが,減 収の主因は不稔である。穂孕期につい で開花期の冷温も不稔を誘発する。幼穂形成期の冷温も 不稔の原因となり得るが,こ の時期の幼穂はまだ水中に あるため冷気温の影響を直接的にうけることは少なく, 実際上はあまり問題にならない。 遅延型冷害は播種後より出穂までの各時期の冷温によ る生育遅延の総和として出穂が遅延し,た とえ開花受精 が順調に行われても登熟後期に秋冷にあって未登熟米を 多発するか,あ るいは出穂が遅延しなくても登熟期間に 冷温が続いて登熟が遅延し未熟米を多発して減収する。 開花期の冷温は開花を抑制して,登 熟開始時期を遅らせ るので,出 穂遅延と同等の効果がある。」(佐 竹 徹 夫 (農林水産省北海道農業試験場)「イネ冷害の機構と栽培的対策」『農業気象』(J. Agr. Met.) 35(4): 251-261, 1980、特に252頁)


*天平7年8月乙未・丙午条--735年9月3日


 乙未(12日)勅曰、如聞、比日、大宰府疫死者多、思欲救療疫氣、以濟民命、是以,奉幣彼部神祇,為民禱祈焉。又、府大寺及別國諸寺、讀金剛般若經。仍遣使、賑給疫民、加湯藥。又、其長門以還諸國守、若介、專齋戒、道饗祭祀。

 丙午(23日)大宰府言、管內諸國、疫瘡大發、百姓悉臥。今年之間、欲停貢調。許之。

是歳、年頗不稔、自夏至冬、天下患腕豆瘡(俗裳瘡)夭死者多。

→本条は著名な記事であるので、多くの論考がある。その研究史を辿らない。近年の新型コロナ禍と同様な感染症によるパンデミックが発生。

⇒⇒参考記事

小山 聡子・藤本  誠・細井 浩志 編「日本古代・中世疾病 疾病観論文目録 」『障害史研究』第6号(データ集) 2024年3月 、167-189頁

. (障害史研究)6号データ集.indb

⇒『続日本紀』延暦7年「是年秋冬、京畿男女年卅已下者、悉発豌豆 瘡、俗曰裳瘡、臥疾者多。其甚者死 」の記事も参照すべし。

⇒『新日本古典文学大系ー続日本紀』第2巻、補12-27(570-572頁)に引用された「太政官符東海東山北陸山陰山陽南海等諸国司 合臥疫之日治身及禁食物等事漆条」や「典薬寮勘申 疱瘡治方薬」は便利

石垣絵美「疱瘡絵の画題と疱瘡除け」『國學院雑誌』巻 118, 号 7, p. 19-43, 発行日 2017-07 國學院大學学術情報リポジトリ に腕豆瘡(俗裳瘡)に関する最近の研究情報が要領よく整理されている。ただし、石垣氏の主な研究関心は疱瘡絵にある。

⇒日本古代史の観点からは、市大樹氏の「天平の疫病大流行-交通の視点から」『国際交通安全学会誌』46巻2号、2021年、96-104頁(https://doi.org/10.24572/iatssreview.46.2_96)に詳細な解説あり。

本庄総子「日本古代の疫病とマクニール・モデル」『史林』Vol.103、No.1、pp.7-40、2020年も、必読論文。


⇒薩摩国における疱瘡患者者に関しては、別のブログ欄で紹介する。


閏11月、壬午朔、日有蝕之。
 己丑、宮內卿-從四位下-高田王,卒。
 戊戌、詔、
「以災變數見、疫癘不已、大赦天下。自天平7年閏11月17日昧爽以前大辟罪以下、罪無輕重、已發覺、未發覺、已結正、未結正、及犯八虐、常赦所不免、咸赦除之。其私鑄錢、并強盜、竊盜、並不在赦限。但鑄盜之徒、應入死罪、各降一等。高年百歲以上賜穀三石、九十以上穀二石、八十以上穀一石。孝子、順孫、義夫、節婦、表其門閭、終身勿事。鰥寡惸獨、篤疾之徒、不能自存者、所在官司、量加賑恤。」

 庚子,更置鑄錢司。
 壬寅,天皇臨朝,召諸國朝集使等。中納言-多治比真人-縣守,宣敕曰、朕選卿等,任為國司。奉遵條章,僅有一兩人。而或人以虛事求聲譽,或人背公家向私業。因此,比年,國內弊損,百姓困乏,理不合然。自今以後,勤恪奉法者,褒賞之;懈怠無狀者,貶黜之。宜知斯意,各自努力。
 是歲
年頗不稔。自夏至冬、天下患豌豆瘡、俗曰-裳瘡夭死者多。

→「天下患豌豆瘡、俗曰-裳瘡。」の「瘡」は「加佐」(『和名抄』)。


*天平14年10月23日ー742年11月24日

⇒地震?大隅国地震 

 古くは天平時代の742年に大噴火(御鉢)の記録があり、これまで主に御鉢と新燃岳で何度も噴火を繰り返している。1716年に起きた大噴火(新燃岳)では、火砕流が発生し、死者5名、負傷者31名、家屋600軒あまりが焼失した。

 御鉢は、かつては「火常峯(ひけふみね)」と呼ばれ、過去の記録によると霧島火山群中もっとも活動的な火口で、規模の大きな噴火も数回起している(内閣府 防災情報のページ、日本の火山 vol.16 霧島山[宮崎県・鹿児島県] | 防災情報


*天平宝字3年8月29日759年9月24日

⇒大風九州諸国建物倒壊 


*天平宝字8年12月ー765年1月

⇒桜島人や家-屋の埋没


*天平神護2年6月5日--766年7月16日

⇒桜島/隼人沖地震



*天平9年(737)4月癸丑条

 癸亥,大宰管內諸國,疫瘡時行,百姓多死。詔、奉幣於部內諸社,以祈禱焉。又,賑恤貧疫之家,并給湯藥療之。

→「諸社」が不明。


*天平16年(744)5月癸亥条

五月,癸亥朔庚戌肥後國,雷雨、地震。八代、天草、葦北三郡官舍,并田二百九十餘町,民家四百七十餘區,人千五百廿餘口,被水漂沒。山崩二百八十餘所,有壓死人卌餘人。並加賑恤

→この条は、「この日肥後国で雷雨と地震があり、八代・天草・葦北3郡(ほぼ、現在の熊本市の南方)で、官舎、田290余町(約3キロ㎡)民家470余区、人1520余人が水をかぶって流されたり沈んだりした。山崩れが280余所あり、圧死者が40余人生じた」(14頁)と解されるという。

→地震学専門家によると、通説では大規模地震が発生したと説くが、「字義どおりに受け止めて、激しい雷雨によって官舎・田・民家・人の漂没および山崩れが起こり、土砂に埋まって40余人が死んだと解釈するのが妥当ではないかと考えられる」(石橋克彦・原田智也「744年天平肥後地震と869年貞観肥後風水災について」『地震』第70巻第2輯、16頁、2017年)という。大規模風水害が発生したようである。



*天平18年(746)10月癸丑条

冬十月,己酉朔癸丑,日向國風雨共發、養蠶損傷。仍免調庸。

→『延喜式』(主計) 日向図〈行程上12日、 下6日〉

 調、 糸十八絢、 自余輸綿、 布、 薄鰒、 堅魚。

庸、 輸綿、 布、 薄複 

中男作物、 斐紙、 、 熟麻、 茜、 胡麻子

⇒このリストに、養蚕が見当たらない。なぜか。

→古代の養蚕経営は、天平12年(740)「越前国江沼郡山背郷計帳」参照のこと

→絹織物の規格は 長6 丈×広(幅)1尺9寸(114 平方尺)。規格が重量の糸と綿は,共に量の16両(160 匁=600g)。度量衡は絇と斤,屯と斤が混用。

→絹の貢納国数は天平2年(730) 以後増加し、 宝亀11年(780)で生産地 36か国


天平勝宝5年秋ー(753年10月13日の報告)

⇒『続日本紀』
 九月壬寅。「摂津国御津村南風大吹。潮水暴溢。壊損廬舍一百十余区。漂没百姓五百六十余人。並加賑恤。仍追海浜居民、遷置於京中空地」。
丁丑(11日)「免摂津国遭潮諸郡今年田租」(11日、摂津国で高潮に遭い、被害を負った諸郡の己卯(13日)「西海道諸国。秋稼多損。仍免今年田租
この記事は、同年秋に西海道諸国が風水害に襲われたと推定される。


*天平神護2年(766)6月丁亥条(天平神護2年6月5日-766年7月16日)

丁亥,日向、大隅、薩摩三國、大風。桑麻損盡。詔、勿收柵戶調庸。

,天平宝字4年(760)の正倉院文書(続々修四十五帙五)の「雑物請用帳」によると、絹の生産地が全国に及ぶ。その数は24国.貢納された絹品目別の 国数と総量は、絁が15国・461匹,糸が6国・1,425 絇、綿が 2,147 屯。

→古代桑園については,天平宝字3年(759)「東大寺 越中国諸荘園総券」の射水郡七條塞里四行三の桑田6段280歩参照のこと。

→,天平6 年(734)「尾張正税帳」と天平10年(738)「駿河国正税帳」に、「綾羅錦織生」とある。国衙とともに郡衙でも生産されたらしい。


*宝亀元年(770)正月甲申条(1月21日-770年2月21日)


甲申,大宰管內,大風,壞官舍并百姓廬舍一千卅餘口。賑給被損百姓

九州諸国の建物が多数倒壊。


*宝亀3年(

気象庁|鶴見岳・伽藍岳 有史以降の火山活動



*宝亀6年(775)11月丁酉条ーー11月7日 ・775年12月4日

丁酉,大宰府言:「日向、薩摩兩國,風雨。桑麻損盡。」詔,不問寺神之戶,並免今年調庸。


*延暦7年(788)7月己酉条ー延暦7年3月4日 788年4月14日

己酉,大宰府言、去三月四日戌時、當大隅國贈於郡曾乃峯上、火炎大熾、響如雷動。及亥時、火光稍止、唯見黑烟。然後雨沙、峯下五六里。沙石委積可二尺。其色黑焉。」

 延暦7年3月4日(788.4.18) 七月巳酉の日、太宰府から報告、「去る三月四日戌の刻、大隅国の曽於郡曽乃峯で火炎が盛んに上がり、響きは雷のようであった。亥の刻におよんで火光はようやく止まり、ただ黒煙だけが見えるようになった。そしてその後、砂が降り、山頂下五・六里は砂石が積もり、二尺にも及んでいるようだ。その色は黒い」。[続日本紀](東京大学地震研究所、噴火 その1 – 東京大学地震研究所

⇒気象庁の説明 気象庁|霧島山 有史以降の火山活動

霧島山 有史以降の火山活動

 大規模な噴火は788年(御鉢)、1235年(御鉢)、1716~1717年(新燃岳)に発生しており、新燃岳と御鉢の活動が主である。

有史以降の火山活動(▲は噴火年を示す)

年代現象活動経過・被害状況等
▲742(天平14)年噴火12月24日から4日間。
▲788(延暦7)年大規模:マグマ噴火4月18日。火砕物降下(片添テフラ)、溶岩流(霧島神宮溶岩)。噴火場所は御鉢。
マグマ噴出量は0.0539 DREkm 3。(VEI3)
▲900年頃←→1100年頃大規模:マグマ噴火火砕物降下(宮杉テフラ)、溶岩流(狭野溶岩)。噴火場所は御鉢。
マグマ噴出量は0.0829 DREkm 3。(VEI3)
▲1112(天永3)年噴火3月9日。神社焼失。
▲1167(仁安2)年噴火寺院焼失。
▲1235(文暦元)年大規模:マグマ噴火(準プリニー式噴火)1月25日。火砕物降下(高原テフラ)、溶岩流(神宮台溶岩)。噴火場所は御鉢。
マグマ噴出量は0.2599 DREkm 3。(VEI4)
▲1250年頃←→1350年頃中規模:マグマ噴火火砕物降下(高千穂河原テフラ1)。噴火場所は御鉢。
マグマ噴出量は0.0128 DREkm 3。(VEI3)
1278←→1287(弘安元~10)年鳴動弘安年間(1278~1287)鳴動。
▲1300年頃→1500年頃マグマ噴火火砕物降下(えびのB1テフラ)。噴火場所は硫黄山。
1307(徳治2)年鳴動詳細不明。
▲1350年頃中規模:マグマ噴火火砕物降下(高千穂河原テフラ2)、溶岩流(高千穂河原溶岩)。噴火場所は御鉢。
マグマ噴出量は0.0034 DREkm 3。(VEI2)
▲1350年頃←→1650年頃中規模:マグマ噴火火砕物降下(高千穂河原テフラ3)。噴火場所は御鉢。
マグマ噴出量は0.0023 DREkm3。(VEI2)
▲1500年頃←→1700年頃中規模:マグマ噴火降下火砕物(えびのB2テフラ),溶岩流(硫黄山溶岩流)。
噴火場所は硫黄山。マグマ噴出量は0.0024 DREkm 3。(VEI2)
▲1554←→1555(天文23~弘治元)年噴火噴火場所は御鉢。
▲1566(永禄9)年噴火5月6日。噴火場所は御鉢。
噴火10月31日。噴火場所は御鉢。死者多数。
▲1574(天正2)年噴火2月。噴火場所は御鉢。
▲1576←→78(天正4~6)年噴火噴火場所は御鉢。
▲1587(天正15)年噴火4月17日。1日に3回噴火。噴火場所は御鉢。
▲1588(天正16)年噴火、地震3月12日。噴火場所は御鉢。
▲1598←→1600(慶長3~5)年噴火噴火場所は御鉢。



⇒以下は、鹿児島大学井村隆介先生の論文の転載。

「 霧島山は,宮崎・鹿児島の県境,小林カルデラ と加か 久く 藤とう カルデラの南縁に生じた第四紀の複成火 山である。霧島山という名前を持った単独のピー クは存在せず,最高峰韓から 国くに 岳だけ (標高1,700m)を はじめ,天孫降臨の神話の山として知られる高たか 千ち 穂ほの 峰みね など20を超える小規模な火山の集合体を霧島 山,あるいは霧島火山と総称している。そのため, 霧島連山,霧島連峰,霧島山系と呼ばれることも 多い。2011年1月26日に激しい軽石噴火(準プリ ニー式噴火)を起こした新しん 燃もえ 岳だけ はこの火山群のほ ぼ中央に位置する活火山である。 ○霧島山の噴火史 霧島山の活動は約150万年前にはじまり,加久 藤火砕流の噴出(約34万年前)頃を境に,古期と 新期とに分けられる。古期霧島火山の噴出物は, その大部分が新期のものに覆われているため,こ の時期の噴火活動の詳細についてはよくわかって いない。今日みられる霧島山は新期霧島火山の活 動によって完成した。約34万年前から10数万年前 の活動によって,霧島山の北西麓~南西麓にかけ て分布する噴出源不明の溶岩や烏え 帽ぼ 子し 岳だけ ,栗野岳, 湯之谷岳,獅し 子し 戸こ 岳だけ ,矢や 岳だけ などの火山体が形成さ れた。10万年前から3万年前の火山活動では,白 鳥山,えびの岳,龍りゅう 王おう 岳だけ ,二ふた 子ご 石いし ,大おお 浪なみ 池いけ ,夷ひな 守そさほもり 岳だけ ,大おお 幡はた 山やま などの火山体が形成された。3万年前から1万7000年前の活動によって,丸岡山,飯盛 山,甑こしき 岳だけ ,韓国岳,新燃岳,中岳などの小型の成 層火山が次々に形成されたと考えられる。この時 期には,白鳥山新期の溶岩流のほか,六ろっ 観かん 音のん 御み 池いけ のベースサージなど,単成火山的な活動も起こっ ている。最近7000年間の噴火活動は,霧島山の南 東域に集中しており,そこでは古高千穂,高千穂 峰,御お 鉢はち が次々と作られ,多量のテフラが噴出し た。御み 池いけ は,約4600年前に発生したプリニー式噴 火によって生じたマールである。この噴火は知ら れている霧島山の爆発的噴火の中では,最も規模 が大きい。 霧島山には,天平十四年(742年)以降,信憑 性の高いものだけでも10を超える噴火活動が記録 に残されており,死傷者の数や寺社・家屋の焼失, 農作物・家畜の被害などの記録も多く残されてい る。史料に残る噴火のほとんどは御鉢と新燃岳で 起こっていると考えられる。そのうち,御鉢の 788年と1235年の噴火,新燃岳の1716~17年の噴 火は特に規模の大きいものであった。」(「霧島山」国土交通省   202 43 シリーズ日本の活火山 v605 星.indd



*延暦9年(790)8月乙未条

乙未朔、大宰府言、「所部飢民八萬八千餘人。請、加賑恤。」許之。


*延暦10年(791)5月辛未条

辛未,大宰府言:「豐後、日向、大隅等國、飢。」又,紀伊國,飢。並賑給之


⇒薩摩国が含まれないのは、なぜか。



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*貞観9(867)年1月20日

⇒豊後の鶴見岳の噴火(2月26日記事)

⇒次は、別府市のレポート。

05.pdf

「第1節 火山活動現象 別府市が擁する鶴見岳・伽藍岳の特徴及び火山活動の諸現象を認識し、これに基づき 火山災害の防災対応を実施するものとする。 

 1 鶴見岳・伽藍岳火山活動の歴史と市域への被害想定 我が国に111ある活火山のうち、100年程度の中期的噴火の可能性及び社会的影 響を踏まえ、50の火山が常時観測火山(火山防災のために監視・観測体制の充実等が 必要な火山)に選定されている。常時観測火山の一つである鶴見岳・伽藍岳の過去の 活動の歴史と別府市域への被害想定は次のとおりとする。

 (1) 過去の主な活動履歴 ① 鶴見岳・伽藍岳の形成史 別府市の背後、東西にのびる別府地溝内に、南北5kmにわたり溶岩ドーム群 が連なる。鶴見岳はその最南端にある。火山群の岩石は、安山岩~デイサイトで ある。鶴見岳は厚い溶岩流の累積からなる。 鶴見岳山頂北側に噴気孔があり、また、火山群北端の伽藍岳には強い噴気活 動がある。火山群の東麓の扇状地に別府温泉群があり、特に扇状地南北縁、山地 との境界部には多数の沸騰泉・噴気孔等が分布する。構成岩石のSiO₂量は 56.7~64.9wt.%である。 鶴見岳は約4万年よりも前から活動を開始しており、主な活動時期はAT火山 灰(29,000年前)とK –Ah火山灰(7,300年前)が堆積した間の22,000 年間であり、その時期に鬼箕山溶岩、伽藍岳溶岩、内山南溶岩、鶴見岳山頂溶岩 などが堆積した。内山南溶岩を噴出した10,500年前の噴火では、成長過程で 溶岩ドームが崩壊して中釣火砕流が発生した。この火砕流に伴う火山灰が内山 北部を中心に堆積している。また、約7,300年前以降の噴火活動は溶岩の流 出を伴わない比較的小規模な噴火が主体であった。 現在、鶴見岳山頂北西側には地獄谷赤池噴気孔があり、噴気活動は活発であ る。 伽藍岳は溶岩ドームであり、活動開始は約10,500年前より若干古いと推定 されている。山頂南側の爆裂火口では、硫気活動がある。

 ② 過去1万年間の火山活動 鶴見岳を構成する山体の大半はアカホヤ火山灰(約7,300年前)に覆われ最 新の溶岩流である山頂溶岩もそれ以前の噴出物である。アカホヤ火山灰の堆積 以降の噴火としては、1,800年前に鶴見岳山頂付近で発生したブルカノ式噴火 による火山灰が鶴見岳の南側斜面に堆積している。伽藍岳は、約10,500年よ り若干古い時代に生成し、伽藍岳3火山灰を噴出した。数千百年前には、変質物 を主体とする粘土質火山灰の放出が少なくとも2回は確認されている。上位の 火山灰層は「日本三代実録」に記載されている西暦867年の噴火に相当するも のと考えられる。伽藍岳の山頂部の径300mの円弧状の火口地形の内側では、 1995年に新たな泥火山が生成するなど、現在でも活発な噴気活動が続いてい る。」


以下は、気象庁のレポート。

気象庁|鶴見岳・伽藍岳 有史以降の火山活動

鶴見岳・伽藍岳 有史以降の火山活動

有史以降の火山活動(▲は噴火年を示す)

年代現象活動経過・被害状況等
▲771(宝亀3)年水蒸気噴火(泥流)7月9日。火砕物降下?泥流。噴火場所は伽藍岳。(VEI1)
867(貞観9)年水蒸気噴火(泥流)2月28日。火砕物降下?泥流。噴火場所は伽藍岳。
鳴動、噴石、黒煙、降灰砂、川魚被害。(VEI1)
1949(昭和24)年噴気2月5日に発見された。鶴見岳山頂の北西約500mの標高1100m付近で面積約30m2の楕円形内の多数の噴気孔から高さ約10mの白色噴気、噴気温度95℃。
1974~75(昭和49~50)年噴気12月~翌年5月。1949年と同地点で噴気、高さ約100~150m、周囲に小噴石飛散。
1995(平成7)年泥火山形成
噴気
7~11月。伽藍岳で泥火山の形成:伽藍岳の珪石採取場跡で泥火山が形成された。 初めは直径約1mの大きさであった噴気孔が7月末頃から次第に大きくなり、11月中旬頃には土手の高さ約1m、火口の長径約10m、短径約7m、深さ約4mの楕円状の泥火山となった。
1999(平成11)年地震12月20~21日。鶴見岳山頂の東約3km、深さ5km付近を震源とする地震増加:最大震度3(震度1以上37回)。
2011(平成23)年地震3月。東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)以降、山体の西側及び東側4~5km付近の地震活動が一時的に増加。
2022(令和4)年地震増加伽藍岳で7月8日に山体付近の浅い所を震源とする地震が一時的に増加した。噴気や地熱域の状態に特段の変化は認められなかった。

日本活火山総覧(第4版)(気象庁編、2013)による。2012年以降は火山活動解説資料(年報)による。
噴火イベントの年代、噴火場所、噴火様式等については、(国研)産業技術総合研究所の活火山データベース(工藤・星住, 2006)を参考に、文献の追記を行った。
なお、噴出物量については、降下火砕物、火砕流、火砕サージ、溶岩流、溶岩ドーム等を加えた重量(単位は「ton」)またはマグマ噴出量(DRE km3)で記載している。また、噴出物量が既知である場合については、産業技術総合研究所作成の活火山データベースから参照し、VEI(火山爆発指数)も付している。詳しくはこちらを参照のこと。


*貞観9年(867)5月11日

⇒阿蘇山小噴火(8月6日記事),10月3日夜に阿蘇山神霊池の水が湧き上がった異変(12月26日記事)

鶴見岳・伽藍岳の火山活動解説資料(令和3年2月) 福岡管区気象台 地域火山監視・警報センター

513_21m02.pdf


<参考記事>

日向灘及び南西諸島海溝周辺の 地震活動の長期評価(第二版) 概要資料 令和4年3月25日 (地震調査研究推進本部 事務局)

日向灘及び南西諸島海溝周辺の地震活動の長期評価(第二版)概要資料

2024年11月30日土曜日

都城市上ノ園遺跡は城柵遺跡か?ーー永山修一説に依拠しつつ

『養老令』軍防令に

軍防令六五 東邊條:凡緣東邊北邊西邊諸郡人居。皆於城堡內安置。其營田之所。唯置庄舍、至農時堪營作者。出就庄田。收斂訖勒還。其城堡崩頹者。役當處居戶隨閑修理。」(東辺、北辺、西辺にある諸郡の人居は、皆、城堡に安置せよ。其の営田の所は唯庄舎を置け。農事に至り、営作に堪えたる者は出でて庄田に就け。収斂<収穫>訖り、牛馬を収めたならば<勒>、城堡に還ること。その城堡が崩頹したならば、當處の居戶を役して閑に修理せよ。)

とある記事を思い浮かべる。

北辺や東辺は陸奥や出羽であろうが、西辺は薩摩・大隅・日向を示すと考えてよい。

 とすれば、日向国における村落の一部は、中央政府がデザインした辺境政策を反映した隼人支配のための拠点施設が存在したと想定しても、さほど奇妙ではないだろう。つまり日本の東と西には、北では蝦夷・南では隼人対策のために設置された城柵が存在したと考えたい。つまり、豊前・豊後国人を日向・大隅に移配し、その農民を準戦闘員として城郭に安居させて、隼人と対峙させたと想定するとしても、不自然ではないだろう。

 すでに永山修一氏や考古学者たちの指摘は、その指標として企救型甕を取り上げている(『宮崎県史』(通史編)や豊前・豊後系の企救型甕の宮崎県内での出土状況につい ても検討した今塩屋毅行の論文は注目に値する<今塩屋毅行2014 「古代の豊前・豊後系土師器−「企求型甕」の軌跡−」『宮崎県央地域の考古資料に関する編年的研 究−東九州道調査以後の新地平−』 宮崎考古学会>)。

 周知の事実であるが、企救型甕の生産地とは勝円B遺跡(豊前国企救郡)、馬場長町遺跡(豊前国 京都郡)、下郡遺跡、井ノ久保遺跡(豊後国大分郡)などであったと言う(ja)(著者は森康(北九州市立自然史・歴史博物館) ・佐藤浩司(北九州 市芸術文化振興財団)・坪根伸也(大分市教育委員会)・稗 田智美(臼杵市教育委員会)・今塩屋毅行(宮崎県教育庁)・ 龍孝明(小郡市教育委員会)・小田裕樹(国立文化財機構奈 良文化財研究所) )。


日向国では、例えば次の2つの遺跡を紹介しよう。

(1)都城市上の園遺跡(宮崎県都城市姫城町6街区21号)

「遺物の種類は、圧倒的に須恵器が多く、わずかに土師器が加わる程度である。須恵器の 器形は甕・壺・坏身・坏蓋・碗・高台付碗・皿・高坏と多岐にわたり,かなり大型の破片 のものが多い。また,底部に「秦」という墨書のはいった須恵器・高台付碗・皿・土師器・ 碗と、体部最下部に花弁状の墨書が巡る土師器・坏が出土しているほか,須恵器・蓋を二次利用した転用硯も発見されている。 今回の調査では約900点の須恵器が出上しているが、 この中には当地方ではこれまであ まり出土していない外蓋がかなり含まれており、 これらの須恵器の蓋を模して作ったとみ られる土師器の外蓋も共伴して出土している。こうした蓋のつまみの形態や日縁の形状, 碗や高台付碗の形態的特徴に依拠する限り、 これらの須恵器の実年代は, 8C後半から9 C代と考えられる。なお, この他にも黒色土器や古代末から中世初頭頃の瓦質土器が出土 しているが、数量的にはごくわずかである」

「現在までに確認している墨書土器は4点である。そのうち氏姓を記したと思われるものは3点で,いずれも「秦」ないしそれに近い文字が,須恵器の高台付碗の高台内部や土師器の碗の底部の縁の,似たような場所に書かれている。書体は同一のものではないが,記 されている文字や場所がほぼ同じことから,なんらかの規格性をもったものではないかと 考えられる。 さて当地方において氏姓とみられる墨書が出土したのはこれが初めてであり,また「秦」 姓に関連した資料についても, これまで皆無であった。ただ,豊前・豊後でよくみられる この姓が, どうして当遺跡から出上した土器に記されていたのかという問題は, これらの土器が出土した古代の建物群の位置付けとともに重要な問題である。 都城盆地は,古くは日向国に属するが,地理的には旧大隅国の縁辺部に近く,その影響 多分に受けていた可能性が高い。永山修一氏の御教示によると,その大隅国へは, 8C 代に,秦姓の多い豊前・豊後国から軍事的意味合い(在地の熊襲・隼人族の教導)のもと に大量移民が行われたという記載がみえるらしく, こうした新勢力の余波が, この地まで 波及したということも十分に考えられることである。つまり,今回検出した建物群が,規模としては郷クラスであることもあわせて考えると,新たに入植したきた秦一族によって 形成された集落, もしくはその運営の中枢に秦一族が存在する集落として考えることもできるのではないだろうか。」

「都城盆地は,古くは日向国に属するが,地理的には1田大隅国の縁辺部に近く,その影響 を多分に受けていた可能性が高い。永山修一氏の御教示によると,その大隅国へは, 8C 代に,秦姓の多い豊前0豊後国から軍事的意味合い(在地の熊襲0隼人族の教導)のもと に大量移民が行われたという記載がみえるらしく, こうした新勢力の余波が, この地まで 波及したということも十分に考えられることである。つまり,今回検出した建物群が,規 模としては郷クラスであることもあわせて考えると,新たに入植したきた秦一族によって 形成された集落, もしくはその運営の中枢に秦一族が存在する集落として考えることもで きるのではないだろうか。」

都城市_上ノ園第2遺跡 (2).pdf 『都城市文化財調査報告書』第27集

(2)片瀬原第2遺跡(宮崎市佐土原町下那珂)

7世紀後半から8世紀代の切り合い関係がある掘立柱建物跡と竪穴住居跡が26棟も検出された。須恵器蓋と(豊前)企救型甕胴部片2点の組み合わせ式の土器埋設遺構が検出された。


この2遺跡の事例でとどめ、我々は(豊前・豊後)企救型甕の出土をもって、その地が日向・大隅に移配された豊前・豊後国人の居住地であった可能性を指摘した文献史学の永山修一氏の仮説の検証が、今後の課題である。さらに上ノ園遺跡出土の「秦」姓の墨書土器が語るメッセージの解読も要求されるだろう。

確実なエビデンスを持たないことを予め事前了承していただけるとして、私の仮説は

①秦氏が朝鮮半島系渡来人であるとの前提に立つ。

②隼人との戦闘や日向国に派遣された豊前・豊後からの移配者が秦氏も含まれていた。

③日向国には、中央政府から派遣されてきた律令官人、豊前・豊後から移配されてきた和人・朝鮮半島系渡来人、俘囚(蝦夷)に加えて、隼人が混在(モザイク状か)していた

④隼人と対立し、隼人を牽制し、隼人との軍事的緊張感が存在し、時には隼人との戦闘状態に、そして時には隼人との交易をおこなう拠点として古代城柵が設定された。

⑤城柵は軍事・朝貢・客館機能に加え、農具・兵器製造・日常器具などの各種鍛冶工房・衣服令に基づく服飾品や装飾品などの各種生産工房、兵舎・祭祀・医療・埋葬施設などの機能を併せ持ち、隼人との最前線に建設された。

⑥城柵は官衙を中心に内郭と外柵を有する空間配置であった。

⑦上ノ園遺跡は中央政府の南進政策と一体となった移配政策の産物として集落であるとともに、地域間ネットワークの拠点でもあった。

と考える。古代都城にあって、


が居住する政庁(官衙など)

2024年11月27日水曜日

(2025年2月22日版未定稿)(5訂版)大原郡衙跡ーー雲南市JR幡屋駅付近の地名「郡家」(郡垣遺跡)

 私の迂闊さを告白すれば、脚元の興味深い地名に気付きながらも、自らの怠慢で考察を後回しにしてきたことの一つに、

 雲南市JR幡屋駅付近の「郡家」(島根県雲南市大東町仁和寺)

がある。

********************

<参考資料>

①内田律雄「『出雲国風土記』大原郡の再検討(1)―「旧郡家」と新造院の比定一」『出雲古代史研究』第5号 1990年

雲南市教育委員会 2010 『雲南市埋蔵文化財調査報告書5:郡垣遺跡』雲南市教育委員会  郡垣遺跡 - 全国遺跡報告総覧

③島根大学 山陰研究プロジェクト1601ーー期 間:2016-2018年度

『出雲国風土記』の学際的研究ー代 表:大橋 泰夫(法文学部教授 / 考古学)

『出雲国風土記』の学際的研究 | 島根大学法文学部山陰研究センター

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『出雲風土記』研究者として名高い加藤義成先生(加茂町在住)に、生涯1度だけご尊顔を拝する機会に恵まれたが、その直話でも、

 「大東町幡屋の郡家」は『出雲国風土記』に記された大原郡家跡

ではないかと言う加藤説をご披露なさった。

しかも私としては、その幡屋村大字遠所(縁所)出身の方々を存じ上げていたので、なおさらである。その地の言い伝えでは、昔、なにかの役所があったらしいとの事。そこで、同地の方のご案内で私自身も一度だけ訪問した折に、仁和寺に至る直線道を不思議がった記憶がある。ごくごくローカルな記述となり、誰もお分かりにならないだろうが。

その後、ナグネ暮らしに身を任せて、長い期間、県外に身を置くと、すっかり探究を忘れていたところ、嬉しいことに雲南市役所教育委員会で発掘がなされ、どうやら大原郡衙であると言う見通しに逢着したという知らせを耳にした。

「郡垣遺跡において見つかった大型の柱穴群は、ここに相当規模の掘立柱建物が存在 したことを示 唆 している。遺構の形状、大きさや柱間などから、官衛関連遺構の可能性が高いものと考えられて いるが、遺構に伴う官衡関連の遣物がないことから、いわゆる状況証拠によってその性格を捉える しかないのが実状である。」(報告書、76頁)

「(結論)郡垣遺跡は、F出雲国風土記』記載の旧大原郡家跡推定地のひとつとして、古くから注目されてい たところである。平成18年度~平成19年度の調査で、規則性を持って並んだ大型の柱穴群を検出した。 これらの柱穴群は、弥生時代中期の遺物包含層上面から掘り込まれており、掘り形の底部は地山にまで及んでいた。このため、掘り形内部の埋土には多量の地山ブロックと弥生土器が含まれている。調 査によつて検出した柱穴群は、この周辺に相当規模の掘立柱建物が存在したことを示しているが、こ の建物跡の時期を知る手がかりを出土遺物に求めることはできなかった。ただ、『出雲国風土記』の 記述との関係において、この遺構が、斐伊郷へ移転する前の旧大原郡家もしくは屋裏郷の郷家などの 官衛関連施設である可能性は十分に考えられる。 弥生時代の遺構は検出されていないが、暗褐色上の遺物包含層から弥生中期の土器が数多く出土し た。この中には塩町式土器も見られることから、本遺跡周辺と備北地域との交流も窺える。また、分銅形土製品1点のほか、黒曜石も出土している。」(雲南市教育委員会報告書、末尾)

我が事のようにうれしい。

博雅の士の教えを乞いたい。

今は、出雲方言で「郡家」をどのように呼んでいたかを思い出す日々である。確か「ぐうけ」(アクセント失念)ではなかっただろうか。

なお、牽強付会であるが、

*大東町郡家に隣接する仁和寺は旧郡寺(屋裏郷新造院)

→(寄り道)私は木次駅裏の安倍氏宅で伝斐伊郷新造院(木次廃寺)の石を手にしたことがあるが、それは現存しているだろうか。御主人の話によると、数個あったと記憶しているが、それは私の聞き間違いか。ちなみに「厳堂」(「厳」の呉音は(Gon)は「金堂」。)である。

→この用字法に関心を持つのは、わざわざ「厳⁺堂」と記述している点である。かりに意図的な用字法であるとすれば、津山郷土博物館 所蔵の「久米廃寺出土塑像及び塼仏」50点などから想定できるように、如来像であったのでないか。しかも呉音で表記した者は百済系仏師であり、彼らが崇拝した仏像が如来像であったとも想定するが、見当違いだろうか。


またさらに『上野国交替実録帳』(1030年ごろ)などに依拠して想像の翼を広げても良いと言っていただけるならば、

1)同地域には「下原口+中原口+上原口+山根口」の小字を見る。数は多いが、これは郡を中心に内郭と外柵を有する空間配置(外周りを築地塀や材木塀)柵の門名でなかっただろうか。ただし、掘立穴列は未発見。

2)郡家の前にある儀式空閑(前庭空閑)、郡家前の直線道路(南北道路もしくは西南道路)が今も残っていると考えられないだろうか。欲を言えば、市場跡も。

なお、幡屋の地名に関心をお持ちの方ならば、直感的に

*幡=秦

の等式を援用して、秦氏一族の居住跡と想定なさる方もおいでになるのではないだろうか。ただし半島式遺物などの出土例は見当たらない。しかしながら、郡衙には武器製造と絹織物製作、宗教施設や埋葬施設は付随していたので、まったく無関係ではあるまい。秦氏が織物に関する技術集団だという前提であるが、頓珍漢である可能性もある。

ところで、郡司の職掌に関しては、「職員令」大郡条には、


大領1人。{職掌は、所部を撫養し、郡事を検察すること。その他の領の職掌については、これに准じること。}

とある。しかし、『続日本紀』延暦5年(786)6月己未条に、
  *大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣
  *員外郡司、権任郡司・擬任郡司
などの職種が生まれた可能性もあるものの、その名を史書に確認できない。
 さらに言えば、大原郡にも、
  *郡老・郡務使・郡目代
などの職名も推定できるが、具体的な職掌は不明である。
 大原郡から采女が貢進されたことは、『続日本紀』天平12年(740)6月庚午条に、

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

とあることで判明し、郡司勝部臣一族の姉妹子女が采女として貢進されたと想定して誤りはないだろう。

むろん郡司だけで郡政が担当できるはずもなく、そこには「郡雑任」と呼称される現地採用の官吏が雇用され、実務を担当した。『類聚三代格』弘仁13年(822)9月20日太政官符によると、

「郡書生 (大郡8人、上郡6人)、中郡4人、(下郡3人)

 毎郡案主 2人

 鎰取 2人

 税長正倉官舎 院別3人

 厨長 1人

 駈使 50人

 伝馬長 郡別1人

 徴税丁 郡別 2人 

 調長 2人

 服長 郡別 1人

 庸長 郡別 1人

 庸米長 郡別 1人

 器作 1人

 造紙丁 2人

 採松丁 1人

 採藁 1人

 採■(まぐさ)丁 3人

 駅伝使舗設丁 郡并駅家別 4人」

が、規定によって配置されていた。仮にすべての役職が大原郡家にも配置されていたと考えるならば、その郡衙には少なくとも100人以上の男子が勤務していたらしい。


加えて、郡司の役割は『令集解』春時祭田条に

「古記云、春時祭田之日 謂国郡郷里毎村在神、人夫集聚祭、若放祈年祭河歟也 行郷飲酒礼 謂令其郷家備設也」

とあるので、郡司らは「神」を祭る宗教的儀礼にも関与しただろう。その場所は『出雲国風土記』記載の幡屋社であろうが、その比定地は諸説ある。現在、幡屋村にある諏訪神社は、昭和38年(1963)の豪雨で崩壊した後、昭和41年(1966)再建した社殿である。それ以前の元宮(旧社地)は幡屋村宮の谷にある宮山の中腹にあったという。そこには今なお「磐座」と呼ばれる岩群があるのt、その地を聖地として三輪山式の岩石祭祀をしていたと考えるのが自然だろう。

 ところで郡家の主である郡司は郡印を有して、それで公文書(公文・案・調・など)に押印していた。残念ながら「大原郡印」は見当たらないが、平川南氏によると古代の郡印は全国で21個残存している。(平川南「古代郡印論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第79集、国立歴史民俗博物館、1999年3月、457-475頁古代郡印平川南.pdf

幸運の神様のお導きで、仮に「大原郡印」が地中から出土したと仮定するならば、

①法量は5.2センチ四方だと予測する

②その印は隷書体から、8世紀後半に楷書体、その後、つまり8世紀後半に隷書体に戻ったという通説に従って、その印影から郡印の鋳造年代を推定する

という見通しを仮説として提出しておきたい。さらに想像をたくましくするならば、出雲国各郡の郡印は国府の工房で鋳造されたと考えても良いだろう。

 大原郡家に関する全面的な発掘調査が完了しないままであるが、郡家には、

①瓦葺の郡庁(政庁)

が存在した。その遺構は発見されていないものの、

②茅葺の庁舎ー向屋・副屋などか

③正倉(●瓦倉・板倉・土倉・茅葺・掃守蔵・丸太倉・甲倉など)

⇒位置は「倉庫令」参照のこと。倉は50丈(約150m)以内に郡庁などの建築物を建ててはならないとあるので、その郡屋における正倉の位置を推測して、試掘できないだろうか。

④厨屋(饗宴、官衙に勤務する役人の食事など)

⑤宿屋

⑥納屋

⑦備屋

⑧酒屋 




<参考文献>

①山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、1994年

②門井直哉「律令時代の郡家立地に関する一考察」『史林』83巻1号、2000年、1-38頁

古代の役所 「上野国新田郡家跡」 - 太田市ホームページ(文化財課)

「新田郡家跡の発掘調査は、郡庁跡が見つかった平成19年度以降、現在まで継続して行われています。これまでの調査の結果、新田郡家は郡庁を中心に正倉が東・北・西に建ち並び、さらにその周りを外郭溝(堀)がめぐる、東西約400m、南北約300m、台形の形をしていたことがわかりました。」

新田郡家の全体図と現在の史跡指定範囲の画像


新田郡家の全体図と現在の史跡指定範囲(平成27年10月7日現在)

新田郡家の用語についてはこちらをクリック。[PDFファイル/247KB]


(1)郡庁(ぐんちょう)

古代新田郡の郡庁は、正殿(せいでん)・前殿(ぜんでん)を中心として長さが50mにもおよぶ長屋建物を東西南北に「ロ」の字形に配置されていたことが発掘調査で明らかとなりました。
郡庁の想定復元図の画像
郡庁の想定復元図(飯塚聡氏作画)

上野国交替実録帳の画像
『上野国交替実録帳(こうずけのくにこうたいじつろくちょう)』の抜粋。平安時代(長元3年 西暦1030年)、上野国の国司(こくし)が交替する際にかわした「引き継ぎ書」の下書きです。「新田郡」の項があり、正倉や郡庁、館、厨といった役所の建物が書かれています。赤線部分は郡庁の長屋建物について書かれています。

発掘調査で見つかった郡庁跡を上から見た図(平成27年現在)の画像
発掘調査で見つかった郡庁跡を上から見た図(平成27年現在)


A 正殿(せいでん)・前殿(ぜんでん)

正殿跡(上空から。平成20年撮影。)の画像
正殿跡(上空から。平成20年撮影。)
郡庁跡の中央に存在する正殿は、東西5間、南北3間の建物があったことや、2回建て替えが行われていたことが調査によってわかっています。

前殿跡(上空から。平成21年撮影。)の画像
前殿跡(上空から。平成21年撮影。)
東西約16.8m、南北約4.2mの建物で、中央が通路になっています。


B 石敷き

調査で見つかった石敷き(南から。平成21年撮影。)の画像
調査で見つかった石敷き(南から。平成21年撮影。)
正殿と前殿の南正面では石敷きが見つかりました。石が直線的に並んでいる状況が写真中央に見られますが、これは正殿と前殿へ向かう通路の縁石であると思われます。


C 長屋建物跡(ながやたてものあと)

調査で見つかった北長屋建物跡(南東から。平成19年撮影。)の画像
調査で見つかった北長屋建物跡(南東から。平成19年撮影。)
地面に丸く空いたところが柱掘りかた(はしらほりかた)で、その穴に柱を建てました。長さが51mにもおよぶ長い建物跡であると想定されます。「柱掘りかた」とは柱を建てるために掘られた大きな穴です。

長屋建物跡の柱掘かたの断面(平成19年撮影。)の画像
長屋建物跡の柱掘かたの断面(平成19年撮影。)
柱掘りかたは、直径約1.2m、深さが約1.0mもあります。柱掘りかたの底近くにある石は、建物の沈下を防ぐために柱の下に入れられたもので、「礎板石(そばんせき)」といいます。


D 掘立柱塀(ほったてばしらべい)

郡庁北西隅の掘立柱塀(西から。平成26年撮影。)の画像
郡庁北西隅の掘立柱塀(西から。平成26年撮影。)

北・西長屋建物の間を、L字形に結ぶようにして塀の柱掘りかたが見つかりました。


E 区画溝

調査で見つかった区画溝(上空から。平成26年撮影。)の画像
調査で見つかった区画溝(上空から。平成26年撮影。)

写真の赤丸が区画溝です。2本の溝の間に柵列と思われる柱穴が並んでいます。溝からは多量の炭化米や炭化材が見つかりました。9世紀後半の郡庁の区画溝であると想定されます。


(2)(3)正倉(しょうそう)

調査で見つかった掘立柱の正倉(西から。平成23年度撮影。)の画像
調査で見つかった掘立柱の正倉(西から。平成23年度撮影。)
郡庁の北約100mの地点で見つかった掘立柱の正倉です。黒褐色の四角い部分が柱掘りかたで、中心部付近に柱が建てられていました。

調査で見つかった正倉(上空から。平成21年撮影。)の画像
調査で見つかった正倉(上空から。平成21年撮影。)
郡庁の北西約80mで見つかった総地業(そうじぎょう。白線の四角い範囲)と、壷地業(つぼじぎょう。白線の丸い部分)の正倉の基礎です。壷地業とは礎石を置く部分だけを土を入れ替えて硬くたたき締める地盤改良の工法です。


(4)外郭溝(堀)

外郭溝の横断面(東から。平成24年撮影。)の画像
外郭溝の横断面(東から。平成24年撮影。)
上面幅(想定)約5.1m、下底幅約3.0m、深さ(想定)約1.7m、断面が逆台形をした幅が広く深い外郭溝が見つかりました。


(5)古い時期の外郭溝(がいかくみぞ)

見つかった古い時期の外郭溝(西から。平成26年撮影。)の画像
見つかった古い時期の外郭溝(西から。平成26年撮影。)

上面幅(想定)約2.2m、下底幅約1.0m、深さ(想定)約0.8mの、断面が逆台形をした古い時期の外郭溝が見つかりました。この外郭溝は途切れている部分があり、そこに出入り口があった可能性があります。


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木簡関連情報

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBQK29000185
木簡番号1176
本文□〔大ヵ〕原評□□□
寸法(mm)(56)
(5)
厚さ5
型式番号065
出典藤原宮3-1176(荷札集成-168・飛20-28上・飛6-14上(135))
文字説明四文字目の偏は「さんずい」、五文字目の偏は「にすい」または「さんずい」か。サト名を推測すると「海潮」郷が該当するか。
形状上二次的整形、下二次的整形、左二次的整形、右二次的整形。
樹種ヒノキ科♯
木取り板目
遺跡名藤原宮跡東方官衙北地区
所在地奈良県橿原市高殿町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第29次
遺構番号SD170
地区名6AJBQK29
内容分類荷札?
国郡郷里出雲国大原郡大原評
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周二次的整形。「大原評」は、『和名抄』の出雲国大原郡にあたる。四文字目の偏は三水、五文字目は二水または三水の文字であることから、「海潮」郷が候補となる。

■研究文献情報



URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITG11000165
木簡番号0
本文出雲国大原郡矢代里大贄腊壱斗伍升
寸法(mm)190
20
厚さ4
型式番号031
出典城21-32下(353)(木研11-15頁-(90))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数193E
遺構番号SD4750
地区名6AFITG11
内容分類荷札
国郡郷里出雲国大原郡屋代郷出雲国大原郡矢代里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明 


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITI11000254
木簡番号0
本文出雲国大原郡矢代里□
寸法(mm)(105)
25
厚さ4
型式番号039
出典城27-20上(286)
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数193F
遺構番号SD4750
地区名6AFITI11
内容分類荷札
国郡郷里出雲国大原郡屋代郷出雲国大原郡矢代里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明 


https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?series=%E9%9B%B2%E5%8D%97%E5%B8%82%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8&sort=jtitle%3Ar