2024年7月28日日曜日

神亀2年閏正月乙丑(4日)、俘囚579人、筑紫に配す(2024年7月31日版)

『続日本紀』神亀2年(725)閏正月乙丑(4日)条に、 
「俘囚144人配干伊予国、579人配千筑紫、15人配千和泉監焉」 
とある。この配置が畿内・四国・九州であった理由を解明できない。とりわけ伊予国に配したのは、博多大津⇒瀬戸内海⇒難波津への航路を念頭に置いたのだろうか。後考を俟つ。

また、『続日本紀』宝亀7年(776)9月丁卯条に、
「陸奥国俘囚395人分配大宰管内諸国」
とある。大宰管内とあるので、各地に移配されたに違いない。『延喜式』巻26、主税上にある「諸国出挙正税公■雑稲」に正海道6国とあり、
「筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊後国・日向国」
の名が挙がっている。『延喜式』に国名はないが、豊前国のも俘囚が移配されたと考えてよい(『類聚国史』190、俘囚)
 続いて、『続日本紀』宝亀7年(776)11月癸未(29日)条にも、
「出羽国俘囚358人配大宰管内及讃岐国」
とあり、大宰府管内に東北地方の俘囚が陸続として配置された。ここで讃岐国とあるので、上記したように博多大津から難波津に至る航海ルートの中間にある讃岐国に配置することで、先の伊予国と連接させたに違いない。先の伊予国にしろ、讃岐国にしろ、その任務は防衛の要衝に配置され、戦闘力強化にあっただろう。その防御力に東北から移配された俘囚がどの程度貢献したかは不明であるが、讃岐国の軍団の中に異質な軍士らの存在が挿入されることで、士気向上を願ったかもしれない。
 すでに議論されてきたように、東北から移配された俘囚は国内35国に配置された。『延喜式』の記事を再掲しないが、全国に均等に配置されたわけではなく、俘囚料稲などにバラツキがあるので、その配置人数は何らかの理由で濃淡があった。
 現段階で、東北から移配された俘囚の総数を知ることはないが、第2次移配も実行されたことは、近江の夷俘630人を大宰府に移して、防人の任に当たらせた(『類聚国史』190、俘囚、大同元年10月壬戌条)ことで判明する。これも重ね合わせなくてはならないので、すぐにその総数の算定が困難であると理解していただけるだろう。
 

 さて、本稿の問題関心は、これらの陸奥国および出羽国出身の俘囚1332人がどこから移配されていったか、である

 それを推測させる記事は、『続日本紀』神護景雲元年(767)11月甲寅条に、
「出羽国雄勝城下俘囚4百余人、款塞乞内属,許之」
とあることに注目したい。その雄勝城を拠点として、『続日本紀』宝亀7年(776)2月甲子条に、
「陸奥国言、取来四月上旬、発軍士2万人、当伐山海2道賊、於是、勅出羽国、発軍士4千人、道自雄勝而伐其西辺」
にある。


2024年7月12日金曜日

古代の度量衡メモその1

 古代正税帳をみると、そこは古代の度量衡の世界。

1)食稲(頴稲=稲の穂)ー1把(米1升。今の玄米4合)、1束(籾1石、米1石。今の玄米2升)

2)酒ー1升(今の4合)。1合(今の4勺)

3)塩ー勺、撮(「さい」と読む)

4)参考資料

『令集解』田令、外官新至条

  「和銅5年5月16日格云、国司部内巡行、将の従は時間以上3人、判官以上2人、史生1人、並びに公廨の食は日米2升、酒1升、史生酒8号、将の従は米1升5合」