2025年4月28日月曜日

古代土佐国 国司リスト(未完)2025-6-13改訂

 土佐国 国司一覧

*引田朝臣虫麻呂(外從五位上)ーー天平15年6月丁酉(30日)

丁酉,以從五位下-中臣朝臣-清麻呂,為神祇大副。從五位下-當麻真人-鏡麻呂,為少納言。從五位下-多治比真人-木人,為中務少輔。從五位下-藤原朝臣-許勢麻呂,為中宮亮。從五位下-高丘王,為右大舍人頭。從五位下-林王,為圖書頭。外從五位下-小野朝臣-綱手,為內藏頭。從五位下-大原真人-麻呂,為式部少輔。外從五位下-大伴宿禰-三中,為兵部少輔。從四位下-大市王,為刑部卿。正五位上-平群朝臣-廣成,為大輔。外從五位上-倭-武助,為典藥頭。外從五位下-紀朝臣-男楫,為彈正弼。從四位上-藤原朝臣-仲麻呂,為左京大夫。外從五位下-鴨朝臣-角足,為右京亮。從五位下-多治比真人-土作,為攝津亮。從四位下-下道朝臣-真備,為春宮大夫,皇太子學士如故。正五位下-背奈王-福信,為亮。正五位下-藤原朝臣-清河,為大養德守。從五位下-佐伯宿禰-毛人,為尾張守。外從五位下-秦井手-乙麻呂,為相模守。從五位下-百濟王-敬福,為陸奧守。外從五位下-葛井連-廣成,為備後守。從五位下-小治田朝臣-廣千,為讚岐守。外從五位上-引田朝臣-蟲麻呂,為土佐守

外從五位上-引田朝臣虫麻呂ーー「引田」は「ヒケタ」と読む。

引田朝臣虫麻呂は神亀5年2月壬午に従六位下であった時、送渤海客使。同年4月に渤海使と共に、渤海へ。天平2年8月辛亥(29日)に帰国。帰国時の肩書は「遣渤海使」であったので、正式には使節として渤海へ派遣されたらしい。その渤海使節派遣の3年後に、出羽国出羽柵は秋田村高清水岡に北進された(『続日本紀』天平5 年12月己未条)。今日に柵跡としての残る秋田城はこの渤海使来日と関連があろう。ただし、遣新羅使(724年)の土師宿禰豊麻呂の官位が従 五位上に比較して渤海使が低いのは、当時の東アジア情勢を暗いからだろう。

⇒「阿倍」は「アヘ」と読む。

新日本文学大系『続日本紀』中でも指摘してるが、阿倍氏には引田氏系と布施氏系とがある。しかし引田臣虫麻呂はいずれでもないのは、引田氏にもいくつかの流れがあり、傍流であったために引田氏のままであったと考えられる。引田臣虫麻呂以外にも、周防国守従七位下引田朝臣秋庭(慶雲3年(708)7月己巳(28日)条>も同じく傍流であったらしい。


⇒いわゆる蝦夷征伐を率いた人物として名高い阿倍引田臣比羅夫の名に認めるように阿倍氏の複姓に注目すれば、引田のほかに内・渠会・久努・布勢<普勢>・狛・他田<長田>などとのコンビネーションがある(加藤謙吉氏)。逆な見方をすれば、比羅夫は引田臣の系統であった。

結論のみを記述すれば、引田臣虫麻呂が渤海に派遣されたのは、比羅夫との血縁関係を有し、しかも天智2年(663)には将軍として新羅に派遣されたという家門のレガシーが作用したに違いない。

 そして持統代に布施系阿倍氏のリーダーである布勢朝臣御主人の活躍でもって、持統10年代以降は布施朝臣ではなく、阿倍朝臣と呼称される。しかし大宝3年に阿倍御主人が死去することで、阿倍氏は引田系阿倍氏へと勢力を移す。すなわち阿倍引田比羅夫の子である引田宿奈麻呂は、慶雲元年11月丙申(14日)に、

 丙申,改從四位下引田朝臣宿奈麻呂姓、賜阿倍朝臣。」

とあり、引田系阿倍氏一族は阿倍氏へと改姓した。

その後、和銅5年11月辛巳条によると、引田氏は久努氏・長田氏ともに「阿倍氏正宗」とある。

なお、この「阿倍氏正宗」宣言に至っては、当時の台閣が

左大臣 正二位  石川麻呂

右大臣 正二位  藤原不比等

大納言 正三位  大伴安麻呂

中納言 従三位  阿倍宿奈麻呂


で構成されており、権勢者である藤原不比等を後ろ盾とした引田朝臣宿奈麻呂の政治的Positionも作用したに違いない。

⇒引田臣虫麻呂の在位は天平18年6月壬寅までで、彼は木工頭に転任する。

「壬寅,以從五位下-石川朝臣-名人,為內藏頭。從五位下引田朝臣虫麻呂,為木工頭。從五位下-物部依羅朝臣-人會,為信濃守。從五位下-藤原朝臣-宿奈麻呂,為越前守。從五位下-大伴宿禰-家持,為越中守」


⇒『続日本紀』に出現する引田氏

《大宝元年(701)11月丙子(8日)》○丙子。始任造大幣司。以正五位下弥努王・従五位下引田朝臣尓閇為長官

⇒職掌は造大幣司


《大宝2年(702)12月乙卯(23日)》○乙卯。以二品穂積親王。従四位上犬上王。正五位下路真人大人。従五位下佐伯宿禰百足。黄文連本実。為作殯宮司。三品刑部親王。従四位下広瀬王。従五位上引田朝臣宿奈麻呂。従五位下民忌寸比良夫、為造大殿垣司。」

⇒職掌は造大殿垣司


《大宝三年(七〇三)六月乙丑(辛酉朔五)》○六月乙丑。以従四位上大神朝臣高市麻呂為左京大夫。従五位下大伴宿禰男人為大倭守。従五位上引田朝臣広目為斎宮頭兼伊勢守。


《大宝三③年(703)7月甲午(庚寅朔5)》○秋七月甲午。詔曰。籍帳之設。国家大信。逐時変更。詐偽必起。宜以庚午年籍為定。更無改易。以従五位上大石王為河内守。正五位下黄文連大伴為山背守。従五位下多治比真人水守為尾張守。従五位下引田朝臣祖父為武蔵守。

⇒職掌は武蔵守


《慶雲元年(704)11月丙申(14日)》○丙申。改従四位下引田朝臣宿奈麻呂姓。賜阿倍朝臣

⇒比羅夫の子。

1,「《慶雲2年(705)4月辛未(22)》○辛未。天皇御大極殿。以正四位下粟田朝臣真人。高向朝臣麻呂。従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂三人。為中納言

2,「《和銅元年(708)9月戊子(30)》○戊子。以正四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。従四位下多治比真人池守。為造平城京司長官

3、「《養老4年(720)正月庚辰【27】》「大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。


慶雲3年(708)7月己巳(28日)》○己巳。周防国守従七位下引田朝臣秋庭等、献白鹿。


《和銅元年(708)3月丙午(13日)》○丙午。以従四位上中臣朝臣意美麻呂為神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂為左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等為右大臣。正三位大伴宿禰安麻呂為大納言。正四位上小野朝臣毛野。従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。従四位上中臣朝臣意美麻呂並為中納言。従四位上巨勢朝臣麻呂為左大弁。従四位下石川朝臣宮麻呂為右大弁。従四位上下毛野朝臣古麻呂為式部卿。従四位下弥努王為治部卿。従四位下多治比真人池守為民部卿。従四位下息長真人老為兵部卿。従四位上竹田王為刑部卿。従四位上広瀬王為大蔵卿。正四位下犬上王為宮内卿。正五位上大伴宿禰手拍為造宮卿。正五位下大石王為弾正尹。従四位下布勢朝臣耳麻呂為左京大夫。正五位上猪名真人石前為右京大夫。従五位上大伴宿禰男人為衛門督。正五位上百済王遠宝為左衛士督。従五位上巨勢朝臣久須比為右衛士督。従五位上佐伯宿禰垂麻呂為左兵衛率。従五位下高向朝臣色夫知為右兵衛率。従三位高向朝臣麻呂為摂津大夫。従五位下佐伯宿禰男為大倭守。正五位下石川朝臣石足為河内守。従五位下坂合部宿禰三田麻呂為山背守。正五位下大宅朝臣金弓為伊勢守。従四位下佐伯宿禰太麻呂為尾張守。従五位下美弩連浄麻呂為遠江守。従五位上上毛野朝臣安麻呂為上総守。従五位下賀茂朝臣吉備麻呂為下総守。従五位下阿倍狛朝臣秋麻呂為常陸守。正五位下多治比真人水守為近江守。従五位上笠朝臣麻呂為美濃守。従五位下小治田朝臣宅持為信濃守。従五位上田口朝臣益人為上野守。正五位下当麻真人桜井為武蔵守。従五位下多治比真人広成為下野守。従四位下上毛野朝臣小足為陸奥守。従五位下高志連村君為越前守。従五位下阿倍朝臣真君為越後守。従五位上大神朝臣狛麻呂為丹波守。正五位下忌部宿禰子首為出雲守。正五位上巨勢朝臣邑治為播磨守。従四位下百済王南典為備前守。従五位上多治比真人吉備為備中守。正五位上佐伯宿禰麻呂為備後守。従五位上引田朝臣尓閇為長門守従五位上大伴宿禰道足為讃岐守。従五位上久米朝臣尾張麻呂為伊予守。従三位粟田朝臣真人為大宰帥。従四位上巨勢朝臣多益首為大弐

⇒職掌は長門守



《和銅5年(712)11月乙酉(20日)》○乙酉。従三位阿倍朝臣宿奈麻呂言。従五位上引田朝臣尓閇。正七位上引田朝臣東人。従七位上引田朝臣船人。従七位下久努朝臣御田次。少初位下長田朝臣太麻呂。無位長田朝臣多祁留等六人。実是阿部氏正宗。与宿奈麻呂無異。但縁居処更成別氏。於理斟酌、良可哀矜。今宿奈麻呂、特蒙天恩。已帰本姓。然此人等、未霑聖沢。冀望。各止別氏。倶蒙本姓。詔許之。


《和銅7年(714)正月甲子(5)》○甲子。授正四位下多治比真人池守従三位。無位河内王従四位下。無位桜井王。大伴王。佐為王並従五位下。従四位下大神朝臣安麻呂従四位上。正五位上石川朝臣石足。石川朝臣難波麻呂。忌部宿禰子首。正五位下阿倍朝臣首名。従五位上阿倍朝臣爾閉並従四位下。従五位上船連甚勝正五位下。正六位上春日椋首老。正六位下引田朝臣真人。小治田朝臣豊足。山上臣憶良。荊義善。吉宜。息長真人臣足。高向朝臣大足。従六位上大伴宿禰山守。菅生朝臣国益。太宅朝臣大国。従六位下粟田朝臣人上。津嶋朝臣真鎌。波多真人余射。正七位上津守連道並従五位下。


《養老7年(723)正月丙子【丁卯朔十】》天皇御中宮。授従三位多治比真人池守正三位。正四位下阿倍朝臣広庭。正四位下息長王並正四位上。従四位上、六人部王正四位下。従四位下大石王従四位上。無位栗栖王。三嶋王。春日王並従四位下。正五位下葛木王正五位上。無位志努太王従五位下。従四位上阿倍朝臣首名。石川朝臣石足。百済王南典並四位下。正五位上大伴宿禰道足。紀朝臣男人並従四位下。正五位下阿倍朝臣船守。従五位上調連淡海並正五位上。従五位上鴨朝臣堅麻呂正五位下。従五位下引田朝臣真人。路真人麻呂。紀朝臣清人。大伴宿禰祖父麻呂。土師宿禰豊麻呂。津守連通並従五位上。正六位上引田朝臣秋庭。河辺朝臣智麻呂。紀朝臣猪養。波多真人足嶋。阿曇宿禰坂持。布勢朝臣国足。息長真人麻呂。角朝臣家主。高橋朝臣嶋主。平群朝臣豊麻呂。石川朝臣樽。中臣朝臣広見。石川朝臣麻呂。余仁軍。正六位下船連大魚。河内忌寸人足。丸連男事。志我閉連阿弥太。越智直広江。堅部使主石前。高金蔵。高志連恵我麻呂並従五位下。又授夫人藤原朝臣宮子従二位。日下女王。広背女王。粟田女王。六人部女王。星河女王。海上女王。智努女王。葛野女王並従四位下。他田舍人直刀自売正五位上。
太宅朝臣諸姉。薩妙観並従五位上。大春日朝臣家主従五位下。


《神亀5年(728)2月壬午【丁卯朔16】》○二月壬午。以従六位下引田朝臣虫麻呂。為送渤海客使。
⇒職掌は渤海客使

《天平2年(730)8月辛亥【29】》○辛亥。遣渤海使正六位上引田朝臣虫麻呂等来帰。
⇒職掌は遣渤海使


《天平三年(七三〇)正月丙子【廿七】》○丙子。授正三位大伴宿禰旅人従二位。従四位下門部王。春日王。佐為王並従四位上。正五位上桜井王従四位下。従五位下大井王従五位上。従四位下多治比真人広成。紀朝臣男人。大野朝臣東人並従四位上。正五位上大伴宿禰祖父麻呂従四位下。正五位下中臣朝臣広見正五位上。従五位上石上朝臣勝雄。平群朝臣豊麻呂。小野朝臣老。従五位下石川朝臣比良夫並正五位下。従五位下波多真人継手。久米朝臣麻呂。石川朝臣夫子。高橋朝臣嶋主。村国連志我麻呂並従五位上。外従五位下巨勢朝臣奈■麻呂。津嶋朝臣家道。正六位上石川朝臣加美。大伴宿禰兄麻呂並従五位下。正六位上息長真人名代。当麻真人広人。巨曾倍朝臣足人。紀朝臣多麻呂。引田朝臣虫麻呂。巨勢朝臣又兄。大伴宿禰御助。佐伯宿禰人足。佐味朝臣足人。佐伯宿禰伊益。土師宿禰千村。箭集宿禰虫麻呂。物部韓国連広足。船連薬。難波連吉成。田辺史広足。葛井連広成。高丘連河内。秦忌寸朝元並外従五位下

《天平三年(七三一)六月庚寅【戊寅朔十三】》○六月庚寅。以従五位下石川朝臣麻呂為左少弁。従五位下阿倍朝臣粳虫為図書頭。外従五位下土師宿禰千村為諸陵頭。外従五位下許曾倍朝臣足人為大蔵少輔。外従五位下引田朝臣虫麻呂主殿頭。外従五位下佐味朝臣足人為中衛少将。外従五位下佐伯宿禰人足為右衛士督。正五位下巨勢朝臣真人為大宰少弐。

《天平十年(七三八)閏七月丁巳【廿一】》○丁巳。外従五位下引田朝臣虫麻呂斎宮長官。外従五位下小野朝臣東人為左兵衛佐

《天平十二年(七四〇)十一月甲辰【廿一】》○甲辰。詔、陪従文武官。并騎兵及子弟等。賜爵人一級。但騎兵父者。雖不在陪従。賜爵二級。授従二位橘宿禰諸兄正二位。従四位上智努王。塩焼王並正四位下。従四位下石川王。長田王。守部王。道祖王。安宿王。黄文王並従四位上。無位山背王従四位下。従五位下矢釣王。大井王。茨田王並従五位上。従四位上大原真人高安正四位下。正五位下紀朝臣麻呂。藤原朝臣仲麻呂並正五位上。従五位上下道朝臣真備。佐伯宿禰清麻呂。佐伯宿禰常人並正五位下。従五位下多治比真人家主。阿倍朝臣吾人。多治比真人牛養。大伴宿禰■信備。百済王全福。阿倍朝臣佐美麻呂。阿倍朝臣虫麻呂。藤原朝臣八束。橘宿禰奈良麻呂並従五位上。正六位上多治比真人木人。藤原朝臣清河。外従五位下民忌寸大楫並従五位下。外従五位下菅生朝臣古麻呂。紀朝臣鹿人。宗形朝臣赤麻呂。引田朝臣虫麻呂。物部依羅朝臣人会。高麦太。大蔵忌寸広足。倭武助。村国連子虫並外従五位上。正六位上当麻真人広名。紀朝臣広名。笠朝臣蓑麻呂。小野朝臣綱手。枚田忌寸安麻呂。秦前大魚。文忌寸黒麻呂。日根造大田。守部連牛養。酒波人麻呂。外少初位上壱師君族古麻呂並外従五位下。

《天平13年(741)12月己亥【23】》○己亥。外従五位下引田朝臣虫麻呂摂津亮。従五位下甘南備真人神前為近江守。従五位下大伴宿禰稲君為因幡守。従五位上藤原朝臣八束為右衛士督。

《天平15年(743)6月丁酉【30】》○丁酉。以従五位下中臣朝臣清麻呂為神祇大副。従五位下当麻真人鏡麻呂為少納言。従五位下多治比真人木人為中務少輔。従五位下藤原朝臣許勢麻呂為中宮亮。従五位下高丘王為右大舍人頭。従五位下林王為図書頭。外従五位下小野朝臣綱手為内蔵頭。従五位下大原真人麻呂為式部少輔。外従五位下大伴宿禰三中為兵部少輔。従四位下大市王為刑部卿。正五位上平群朝臣広成為大輔。外従五位上倭武助為典薬頭。外従五位下紀朝臣男楫為弾正弼。従四位上藤原朝臣仲麻呂為左京大夫。外従五位下鴨朝臣角足為右京亮。従五位下多治比真人土作為摂津亮。従四位下下道朝臣真備為春宮大夫。皇太子学士如故。正五位下背奈王福信為亮。正五位下藤原朝臣清河為大養徳守。従五位下佐伯宿禰毛人為尾張守。外従五位下秦井手乙麻呂為相摸守。従五位下百済王敬福為陸奥守。外従五位下葛井連広成為備後守。従五位下小治田朝臣広千為讃岐守。外従五位上引田朝臣虫麻呂土左守

《天平18年(746)4月癸卯【22】》○癸卯。授正四位上藤原朝臣仲麻呂従三位、。正四位下智努王正四位上。従四位上三原王正四位下。従四位下諱従四位上。従五位下小田王従五位上。無位額田部王。伊香王。山村王並従五位下。従四位上石上朝臣乙麻呂正四位下。従四位下紀朝臣麻呂従四位上。正五位上多治比真人占部。阿倍朝臣沙弥麻呂。藤原朝臣清河。正五位下大伴宿禰兄麻呂並従四位下。正五位下石川朝臣年足正五位上。従五位上多治比真人国人正五位下。従五位下粟田朝臣馬養従五位上。外従五位下大伴宿禰麻呂。田口朝臣三田次。為奈真人馬養。粟田朝臣堅石。当麻真人広名。紀朝臣可比佐。大伴宿禰三中。大伴宿禰名負。大伴宿禰百世。路真人宮守。引田朝臣虫麻呂。下毛野朝臣稲麻呂。太朝臣徳足。路真人野上。車持朝臣国人。高橋朝臣国足。鴨朝臣石角。穂積朝臣老人。布勢朝臣多禰。大伴宿禰犬養。笠朝臣蓑麻呂。小野朝臣東人。小野朝臣綱手。紀朝臣必登。鴨朝臣角足。正六位下藤原朝臣宿奈麻呂。正六位上阿倍朝臣毛人。波多朝臣足人。佐伯宿禰浜足。坂合部宿禰金綱。采女朝臣人。阿曇宿禰大足。中臣朝臣益人。県犬養宿禰古麻呂。正六位下巨勢朝臣君成。正六位上大神朝臣麻呂。佐伯宿禰全成。大養徳

《天平18年(746)6月壬寅【21】》○壬寅。以従五位下石川朝臣名人為内蔵頭。従五位下引田朝臣虫麻呂木工頭。従五位下物部依羅朝臣人会為信濃守。従五位下藤原朝臣宿奈麻呂為越前守。従五位下大伴宿禰家持為越中守。



*客君狛麿(外從五位下)ーー天平18年9月1日

⇒「客君」の読みは「カクキミ」か?

⇒「客君」にかんする情報は多くない。

⇒「狛麿」とある「狛」に注目すれば、「高麗(こま)」、つまり渡来系官人であった可能性もある。

⇒「『合』天平17年4月17日従七位下行員外令史家原連男常、外従五位下行正客君〈別当〉、正七位上行令史掃守連〈故〉」(『大日本古文書』第2巻408頁とある。この人物に名は未記載。


*大伴古慈斐ーー天平宝字元年7月4日

⇒薨伝;「宝亀8年8月丁酉(19日)条:大和守-從三位大伴宿禰古慈斐,薨。飛鳥朝常道頭-贈大錦中-小吹負之孫。平城朝越前按察使-從四位下-祖父麻呂之子也。少有才幹,略涉書記。起家大學大允。贈太政大臣-藤原朝臣-不比等,以女妻之。勝寶年中,累遷從四位上-衛門督,俄遷出雲守。自見疏外,意常鬱鬱。紫微內相-藤原-仲滿,誣以誹謗,左降土佐守,促令之任。未幾,勝寶八歲之亂,便流土佐。天皇宥罪入京,以其舊老,授從三位。薨時,年八十三。」

 この文中の「意常鬱鬱」に注目される。いわゆるmajor depressive disorderであり、精神障害の一種であったらしい。具体的には、脳内のセロトニン、ノルアドレナリン、ドパミンといった神経伝達物質のバランスが崩れており、それにより感情や意欲をコントロールできず、気分の落ち込み、意欲低下や眠れない、だるいとか生きにくさを表明する症状である。

⇒「大伴宿禰古慈斐」の「古慈斐」は「コシビ」と読む。

⇒『万葉集』巻19、4262題に「(天平勝宝4年)閏3月に、「 衛門督大伴古慈悲宿祢の家に於て、入唐副使同胡麻呂宿祢等を餞せし歌二首」とある。

⇒ 昨子ー小吹負ー祖父麻呂ー古慈斐ー弟麻呂の系譜

  ちなみに旅人-家持の系列は

   昨子ー長徳ー安麻呂ー旅人ー家持ー永主

であり、長徳と小吹負が兄弟であるので、古吹負と従兄弟関係に位置する。

大伴慈悲の妻は光明子の姉妹、藤原仲麻呂の妻の一人は大伴犬養の娘。


⇒『東大寺要録 』二、供養章第三開眼供養会(天平勝宝四年四月)

 「八日。留守官( 東宮大納言巨勢卿、西宮中納言紀朝臣麿 )   

 九日。太上天皇。太后。天皇。座東大堂布板殿。以開眼~~。

 其先請複位已上僧。自南門直参入。引道。

  玄蕃頭。外従五位下秦忌寸首麿 

 右中弁。従五位上県犬養宿禰古麿 

次開眼師。僧正菩提法師。乗輿捧白蓋。自東入。迎。    

 正五位下賀茂朝臣角足 

 従五位上安倍朝臣嶋麿 

次講師。隆尊律師。乗 輿差白蓋、自西入。迎。 

 従四位上橘朝臣奈良麿、 

 従四位上大伴宿禰古慈悲 

次読師。延福法師。乗輿、差白蓋、自東入。迎。 

 従四位下藤原朝臣八束 

 従四位下石川朝臣麿 」

⇒藤原仲麻呂の乱や橘奈良麻呂の乱などとの関係は割愛

⇒『万葉集』巻19、4262番の

「韓国に行き足はして帰り来む大夫建男に神酒たてまつる」

天平勝宝四年閏三月に大伴胡麻呂入唐の歓送の宴 が大伴古慈斐邸で行われた時に詠まれたとある。


*田口朝臣水直ーー天平宝字3年(759年)11月丁卯(5日)

⇒「御直」とも記す。

⇒『続日本紀』

《天平宝字3年(759)11月丁卯【5】》○丁卯。以従五位上藤原朝臣宿奈麻呂為右中弁。従五位下菅生王為大監物。従五位下文室真人波多麻呂為右大舍人助。従五位下藤原朝臣楓麻呂為文部少輔。従三位氷上真人塩焼為礼部卿。従五位上阿倍朝臣毛人為仁部大輔。従三位藤原朝臣乙麻呂為武部卿。従五位上阿倍朝臣子嶋為大輔。正四位上紀朝臣飯麻呂為義部卿。河内守如故。正四位下文室真人大市為節部卿。従四位下御使王為大膳大夫。従五位下和王為正親正。従五位下高橋朝臣子老為内膳奉膳。外従五位下小田臣枚床為采女正。従四位下佐伯宿禰今毛人為摂津大夫。従五位上大伴宿禰御依為遠江守。正五位上藤原朝臣魚名為上総守。従五位下池’田朝臣足継為下総介。従五位下藤原恵美朝臣薩雄為越前守。従五位下藤原朝臣武良自為丹後守。右勇士督従四位下上道朝臣正道為兼備前守。従五位下藤原朝臣縄麻呂為備中守。正五位下久勢王為備後守。従五位下田口朝臣水直為土左守。


⇒『続日本紀』

《天平宝字元年(七五七)六月壬辰【十六】》○壬辰。以従三位石川朝臣年足為神祇伯。正四位下橘朝臣奈良麻呂為右大弁。正五位下粟田朝臣奈勢麻呂為兼左中弁。越前守如故。正五位上大倭宿禰小東人為紫微大忠。従五位下田口朝臣御直大監物


⇒以下は、参考情報。『駿河国正税帳』に

霊亀元年検校国司守従六位下巨勢朝臣足人

 欠穀壱万肆伯伍拾捌斛参斗捌升玖合伍夕〈国司守従六位上田口朝臣御負 掾従七位上竺志史
 君足 目正八位上林連安人等時欠〉」(
(正集18断簡3  2/122~123―8)
とある。この「御負」は「水直」である。ただし霊亀元年は715年。


*賀茂朝臣塩管ーー天平宝字5年1月癸卯(17日)

⇒「《天平宝字5年(761)正月癸卯【17】》○癸卯。以従五位下参河王為和泉守。従五位下賀茂朝臣塩管為土左守。

⇒「塩管」は「シオツツ」と読む。

⇒『続日本紀』天平宝字元年(757)5月丁卯【20】》○丁卯
外従五位下葛井連諸会、日置造真卯、中臣丸連張弓、上毛野君広浜、広野連君足、正六位上忌部宿禰呰麻呂、三国真人百足、多治比真人犬養、紀朝臣僧麻呂、大宅朝臣人成、中臣朝臣麻呂、高橋朝臣子老、阿倍朝臣御県、榎井朝臣小祖父、賀茂朝臣塩管、大原真人今木、巨勢朝臣度守、石川朝臣君成、田口朝臣御直、賀茂朝臣浄名、藤原朝臣執弓、池田朝臣足継、田中朝臣多太麻呂、大伴宿禰不破麻呂、石川朝臣人公、無位文室真人波多麻呂並従五位下。」

⇒『続日本紀』
《神護景雲2年(768)2月癸巳【18】》○癸巳、以正三位弓削御浄朝臣清人為大納言、内竪卿・衛門督・上総守如故、従三位中臣朝臣清麻呂為中納言、神祇伯如故、大蔵卿従三位藤原朝臣魚名為参議、従五位上賀茂朝臣塩管神祇大副

*豊野真人出雲ーー神護景雲2年6月辛丑(29日)


⇒『続日本紀』

《天平宝字3年(759)正月戊寅【11】》○戊寅、以従五位下豊野真人出雲少納言、従五位下船井王為内史頭、外従五位下宇自可臣山道為画工正、従五位下高橋朝臣人足為上野守、外従五位下生江臣智麻呂為佐渡守

《天平宝字3年(759)6月庚戌【乙未朔16】》○6月庚戌、

従三位船王、池田王並授三品、正四位上諱従三位、従五位下御方王、御使王、無位林王、笠王、宗形王並従四位下、従五位下河内王従五位上、正四位下紀朝臣飯麻呂、藤原朝臣真楯並正四位上、従四位上藤原朝臣巨勢麻呂正四位下、従四位下藤原朝臣御楯従四位上、正五位下阿倍朝臣嶋麻呂、大伴宿禰犬養、石川朝臣名人、正六位上岡真人和気、従五位下仲真人石伴、従五位上藤原恵美朝臣真光、従五位下藤原恵美朝臣久須麻呂並従四位下、正五位下中臣朝臣清麻呂、従五位上藤原朝臣魚名並正五位上。従五位下藤原恵美朝臣朝狩正五位下、従五位下都努朝臣道守、阿倍朝臣毛人、大伴宿禰御依豊野真人出雲従五位上、正六位上三嶋真人廬原、阿倍朝臣許智、藤原朝臣雄田麻呂、藤原恵美朝臣小弓麻呂、藤原恵美朝臣薩雄、橘宿禰綿裳並従五位下、従四位下室女王、飛鳥田女王並四品、従五位下弓削女王、無位川辺女王、加豆良女王、従五位下藤原恵美朝臣児従並従四位下。
以従四位上藤原朝臣御楯任参議。」


③『続日本紀』《天平神護元年(765)9月癸丑【24】》○癸丑、以従二位藤原朝臣永手、正三位吉備朝臣真備為御装束司長官、従四位下高丘連比良麻呂、従五位上豊野真人出雲、大伴宿禰伯麻呂為次官、判官四人、主典四人。


④『続日本紀』《天平神護2年(766)9月丙子【廿三】》○丙子、以従四位下阿倍朝臣毛人為五畿内巡察使、従五位下紀朝臣広名為東海道使、正五位上淡海真人三船為東山道使、従五位上豊野真人出雲北陸道使、従五位上安倍朝臣御県為山陰道使、正五位下藤原朝臣雄田麻呂為山陽道使、従五位下高向朝臣家主為南海道使、採訪百姓疾苦、判断前後交替之訟、并検頃畝損得、其西海道者、便令大宰府勘検、

⑤『続日本紀』《天平神護2年(七六六)十二月癸巳【十二】》○癸巳、幸西大寺、無位清原王、気多王、梶嶋王、乙訓王並授従五位下、従四位下藤原朝臣田麻呂従四位上、正五位下大伴宿禰伯麻呂正五位上、従五位上豊野真人出雲正五位下従五位下豊野真人奄智従五位上、正六位上豊野真人五十戸従五位下、従五位下多治比真人若日女正五位下、外従五位下檜前部老刀自外従五位上


⑥『続日本紀』《神護景雲2年(768)3月乙巳朔》○三月乙巳朔、日有蝕之、先是、東海道巡察使式部大輔従五位下紀朝臣広名等言、得本道寺神封戸百姓款曰、公戸百姓、時有霑恩、寺神之封、未嘗被免、率土黎庶、苦楽不同、望請、一准公民、倶沐皇沢、使等商量、所申道理、至是、官議奏聞、奏可、余道諸国亦准於此、」又同前言、運舂米者、元来差徭、人別給糧、而今徭分輸馬、独給牽丁之糧、窮弊百姓無馬可輸、望請、依旧運人別給糧、又下総国井上、浮嶋、河曲三駅、武蔵国乗潴、豊嶋二駅、承山海両路、使命繁多、乞准中路、置馬十疋、奉勅依奏、其余道舂米、諸国糧料、亦准東海道施行、」北陸道使右中弁正五位下豊野真人出雲言、佐渡国造国分寺料稲一万束、毎年支在越後国、常当農月、差夫運漕、海路風波、動経数月、至有漂損、復徴運脚、乞、割当国田租、以充用度、山陽道使左中弁正五位下藤原朝臣雄田麻呂言、本道郡伝路遠、多致民苦、乞復隷駅将迎送、又長門国豊浦、厚狭等郡、宜養蚕、乞停調銅、代令輸綿、南海道使治部少輔従五位下高向朝臣家主言、淡路国神本駅家、行程殊近、乞従停却、詔並許之。


⑦『続日本紀』「《神護景雲2年(768)6月辛丑【29】》○辛丑、衛門大尉外正五位下葛井連根主為兼内竪大丞、従五位下安曇宿禰石成為若狭守、従四位下阿倍朝臣弥夫人為伊予守、右中弁正五位下豊野真人出雲為兼土左守、従五位下紀朝臣広純為筑後守」


⑧『続日本紀』「《宝亀元年(770)8月戊戌【9】》○戊戌、授正五位下豊野真人出雲従四位下、従五位上豊野真人奄智正五位下、従五位下豊野真人五十戸従五位上、以其父故式部卿従二位鈴鹿王旧宅、為山陵故也、授従五位上藤原朝臣乙縄従四位下、正六位上藤原朝臣是人従五位下。」

鈴鹿王旧宅とは大和国添下郡佐貴郷だと記す(同年同月丙午条)。


⑨『続日本紀』「《宝亀元年(七七〇)八月丁巳【廿八】》○丁巳、授大学頭諱従四位下、」以従五位下賀茂朝臣浄名為員外少納言、従四位上藤原朝臣雄田麻呂為右大弁、内竪大輔・内匠頭・右兵衛督如故、従四位下諱為侍従、従四位下吉備朝臣泉為大学頭、従五位上紀朝臣広庭為河内守、従五位下桑原王為下総介、造宮卿従三位高麗朝臣福信為兼武蔵守、大蔵卿従三位藤原朝臣魚名為兼但馬守、従五位下大伴宿禰潔足為因幡守、近衛少将従五位下紀朝臣船守為兼紀伊守、従四位下豊野真人出雲大宰大弐

⑩『続日本紀』「《宝亀8年(777)4月丁未【26】》○丁未、散位従四位下豊野真人出雲卒」


⇒姓氏の由来:『続日本紀』《天平宝字元年(757)閏8月癸亥【18】》○癸亥、夫人正二位橘朝臣古那可智、無位橘朝臣宮子、橘朝臣麻都賀、又正六位上橘朝臣綿裳、橘朝臣真姪、改本姓、賜広岡朝臣、従五位下出雲王、篠原王、尾張鷗、無位奄智王、猪名部王賜姓豊野真人

⇒⇒⇒豊野真人出雲のように「賜姓皇親」の研究は今後の課題である。


*藤原乙縄ーー宝亀元年9月7日




*当麻永嗣ーー宝亀元年10月9日

*大伴田麻呂ーー宝亀5年3月5日

*紀船守ーー宝亀8年正月25日

*正月王ーー天応元年5月25日

*紀真子ーー延暦元年7月21日

*正月王ーー延暦3年4月3日

*秦馬長ーー延暦4年7月16日

2025年4月26日土曜日

「祖、百済国人」が大滝氏-----大滝氏の由来

承和10年(843)12月に「河 邊郡百姓外従五位下勲八等奈良己智豊継等五人、 賜姓大瀧宿称。」とある。その理由は、「祖百済国人」であった。

ただし、なぜ「大滝」かは不明である。

2025年4月19日土曜日

九州の蝦夷・俘囚に関する考古学的知見の紹介

 西日本新聞に掲載された記事であるが、

*「福岡に東北・蝦夷の長らの墓? 那珂川市の観音山古墳群、九州初確認か

8ー9世紀に防人などとして強制移住」


を偶見した。

しかも、かって九州国立博物館HPにおいても、


************

実は、この蝦夷の一族は、古代には九州地方にも住んでいました。

今回のブログでは、九州在住の蝦夷をクローズアップしていきます笑顔

 

 日本という国が形づくられていく7~8世紀(飛鳥~奈良時代)。

東北では「蝦夷(えみし)」、九州南部では「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が住んでいました。

とは言っても、彼ら自身が蝦夷・隼人と名乗ったわけではありません。

これらの名前は、日本の朝廷側からの呼び名です。

天皇を中心とする日本国の外縁に居住していた人々を、一方的に北では蝦夷、南では隼人と呼んでいたのですなく

 

 日本国と蝦夷・隼人の間では、交易等の平和的交流がある一方で、軍事的衝突も繰り返しました。

日本国が蝦夷・隼人も、自分達の支配下に置きたいと考えていたためです。

とくに、日本国と蝦夷の間では、「三十八年戦争(774~811年)」をはじめとする大規模な戦争が何度も起こりました。

 

 このような対立の下で、日本国に新たに服従した蝦夷の人々は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれましたノート

また、俘囚となった蝦夷の人々は、集まって反乱を起こさないように、日本各地に散らばるように移住させられましたなく

こうして、東北から遠く離れた九州にも、蝦夷の人々がやって来たのです。

 

 現在、九州国立博物館4階の文化交流展では、九州地方で発見された蝦夷ゆかりの出土品を紹介しています笑顔

福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の黒添・赤木遺跡(くろぞえ・あかぎいせき)からは、東北地方の土器と同じ形状のものが数多く出土しました。

出土したのは、「長胴で平底の甕(かめ)」と「黒く燻(いぶ)された椀」の土器セットで、奈良時代・8世紀のものです。

貯蔵用の甕と、お茶碗といったところでしょうか笑顔

甕の底部には木の葉の葉脈が転写されています葉っぱ

※大きな葉を下敷きにして、土器をつくっています葉っぱ

 

 九州に移住させられた蝦夷の人々は、故郷と同じ土器をつくり、使い続けていたようですね笑顔

なお、黒添・赤木遺跡の集落は短期間で廃絶しているので、またどこかに引っ越したようです。 

 次に紹介する展示品は、「蝦夷の刀」と呼ばれる蕨手刀(わらびてとう)ですわらびて

蕨手刀は蝦夷の人々が愛用していた刀に多く見られます。

 錆びてボロボロですが、九州では3振しか確認されていない珍しい小刀ですわらびて

 柄(手で握る部分)の先端が丸まっているので、「蕨(わらび)わらびて」の名前がついています。

蕨手刀という名前は、古代から呼ばれていた名前ではなく、現代人が名付けた名前です。

 

 福岡県朝倉市(あさくらし)の「池の上9号墳」(飛鳥時代・7世紀)という古墳から出土しました。

被葬者は筑紫の豪族と見られますが、どのような経緯で入手したのかは不明ですみずら

 

 蝦夷ゆかりの品々の展示は、来春(2018年3月18日)までの期間限定公開の予定です。

お見逃しなくギャロップ

船橋市の「別所」

 

以下は、吉開潔氏の論文「古代製鉄から解く地名「行々林」の謎 古代製鉄から解く地名「行々林」の謎」『秀明大学紀要』2022年 から学んだものであり、私の考えではない。

 吉開氏の論点は、 千葉県の下総台地西部に位置する船橋市豊 富地区にあった旧村名・大 字名で、昭和30(1955) 年に「鈴身町」と改称され消失した地名「行々林」を「おどろばやし」と読むことの解明にある。

 今、その吉開氏の関心とは別に、千葉県船橋市豊富地区には、「別所」と呼ぶ地域があり、そこには 

>>「別所べっしょ」=一説に蝦夷の捕虜を 産鉄、採鉱労働者として住まわせた場所(同論文、32頁)

とあることに注目したい。この言及は

*24 柴田弘武(2007)『全国「別所」地名事典(上巻)鉄と俘囚の民俗誌―蝦夷「征伐」の真相』彩流社、240頁。(未見)

の引用文献を提示しているので、かならずしも吉開氏の説ではないかもしれない。

 この別所地域に「蝦夷の捕虜」であったのどうか意見が分かれるが、仮に俘囚だとしても、何らかの東北出身の蝦夷系の人間たちが産鉄に従事していたと想像させる。

この項目も確実なエビデンスないままの想像に過ぎないが、今後の考察の道しるべとしておきたい。


ちなみに吉開氏の結論は

「具体的に「行々林」地名は、8世紀後半に産鉄技術を有する秦氏の一族が古代蝦夷地域への支配領域 拡大という国策によって備前方面から房総の地に移住し故地の「オドロ」地名を伝えたのが、その起源であろ うと考えた」(同論文、34頁)

である。



 


2025年4月14日月曜日

 栃木県宇都宮市に西下谷田遺跡がある。


西下谷田遺跡は下野国府の前身ともいえる重要な 行政機関の遺跡であるが、県内では渡来系の陶質土 器が最も多く出土し、この地域に新羅系渡来人が居住した可能性を指摘されている

今、上三川町HPの説明を紹介したい。

西下谷田遺跡[にししもやたいせき](宇都宮市茂原町)

西下谷田遺跡は、上神主・茂原官衙遺跡から西へ約800mに位置する遺跡です。上神主・茂原官衙遺跡に先行する官衙遺跡で、郡家の前身である「評家[ひょうが]」の可能性が指摘されています。本遺跡は、古墳時代前期に集落が営まれ、6世紀末から7世紀初頭にかけて円墳が4基築造され墓域となります。7世紀後葉から8世紀初頭にかけて、南側のエリアに東西推定108m×南北約150mの柵列が巡り、その中に長大な掘立柱建物や大型の竪穴建物跡を配する官衙的な施設が設けられます。この施設は、南側の門が棟門から八脚門[はっきゃくもん]に造り変えられることなどから、2時期あることがわかっています。また、施設の周辺には同時期の竪穴住居跡があり、その中には新羅[しらぎ]系の土器を出土する竪穴住居跡もあることから、この施設及び周辺には新羅に関係した人がいたことが想定されています。


8.周辺の官衙・寺院遺跡 | 上三川町公式ホームページ|ORIGAMIのまち





2025年4月13日日曜日

『新編武蔵土記稿2』巻133,新座郡之五、上新倉村、「古蹟 新羅王居跡」

 埼玉県和光市に午王山遺跡(新倉3丁目)がある。

*和光市教育委員会 2019 『和光市埋蔵文化財調査報告書66:午王山遺跡総括報告書』和光市教育委員会

において報告書全文を一読できる。

その第3章に、江戸時代の官選地理書『新編武蔵土記稿』巻133,新座郡之五、上新倉村、「古蹟 新羅王居跡」を紹介する。

 「 古蹟 新羅王居跡 

牛房山ノ上ニワヅカノ平地アリ、昔シ新羅ノ王子京ヨリ下向ノ頃、コヽニ居住セシト 云、和名鈔ニ載スル当郡ノ郷名志木ト云ヘルハ此辺ノ事ニテ志楽木ノ中略ナルベシト、此村ニスメ ル好事ノ者イヘリ、当村ニ山田、上原、大熊ナド氏トセル農民アリ、是ハ旧キ家ナルヨシ、彼等ガ 祖先ハ京都ヨリ新羅王ニ従ヒ来リシナリト云伝フ、サレバ此山ノ名モ元此王子居跡ヨリ起リタル事 ナレバ、御房山ナドカクベキヲ、イツノ頃ヨリカ牛房ノ字ニカヘシナラント、是モ村老ノ説ナリ、 続紀持統紀元年四月甲午朔癸卯、筑紫太宰、献投化新羅僧尼、及百姓男女二十三人、居于武蔵国、 賦田受稟使安生業ト云ヒ、又同ジ紀ニ、韓奈末許満等十二人ヲ、コノ国ニヲカレシコトアレバ、コ ノ居蹟ト云ハモシクハコレラノ人ヲリシニヤ、サレド外ニ拠モナケレバ、詳ナルヲシラズ 」


新編武蔵土記稿』は著名であるので、この文献の説明に関しては割愛する。

さて、問題は上記の『午王山遺跡総括報告書』に明記してあるように、この遺跡から新羅系渡来人居住地の痕跡を認める資料が発掘されていないことである。

いまさら言い伝えと史実の間の論争に参戦するつもりはないが、新羅王の一族であったかどうかは確証するすべはないものの、何らかの史実が反映されていると考えても、決して不自然ではないだろう。


その地域はズレるけれども、狭山市に目を転ずれば、

東京市役所が発行した『山口貯水池小誌』(1934年) によれば、 

 「山口貯水池(狭山湖)の中心とも云うべき所にあった勝楽寺村に、昔高麗人が居たといふ伝説がある・・・この伝説が真実だとすると、旧勝楽寺村の地は高麗人が武蔵に来た最初の場所の一つであったものではないかと思われのだ」とある。
この『山口貯水池小紙』は東京市役所編であり、1934年に出版された。
その内容は、
目次〉 1 緒言 2 山口貯水池の区域 3 狭山の丘陵 4 狭山の名所 5 柳瀬川の清流 6 太古の山口谷 7 上代の山口地方 8 氏神の奉祀 9 高麗人の来居 10 古寺の創建 11 板碑の分布 12 村山党の根拠地 13 山口党の勤王 14 古城の遺趾 15 戦国時代の山口 16 行政区画の変遷 17 戸数及人口 18 地頭の支配 19 名主及旧家 20 山口村の行政 21 検地及貢税 22 金石文及古文書類 23 神社及寺院 24 名僧智識の輩出 25 手斧削の農家 26 猪狩の落穴 27 老木と山躑躅 28 買収並び補償 29 移転の人々 30 好個の記念 附図 山口貯水池近傍図 写真版 大坊の高地より堰堤方面を望む 昔の山口附近 大笠部落 柳瀬川の上流 大坊(七社の杜と佛蔵院) 昔の大坊 七社神社 佛蔵院 天満天神社 清照寺と星見堂 石鏃 打製石斧 出土の瓶(七社神社) 出土の瓶(佛藏院) 古瓦宇瓦(中氷川神社境内出土) 布目瓦(佛蔵院) 王辰爾の墓(と伝ふるもの) 板碑(嘉元三年及暦應二年) 梵鐘(佛蔵院) 同鐘銘 星見堂 地頭久松彦左衛門基誌銘 古文書(佛蔵院及糟屋家記録并慶長年貢帳) 城山(根古屋城趾) 山口城趾(土塁の断面) 手斧削の農家 猪狩の落穴 五郞松 六道山公園の櫻 柿の老木 狭山富士 挿画 弘安三年の板碑 根古屋城 根古屋城見取図 午王の版 手斧削の農家の間取図 猪狩の槍」

に、上記の伝説が引用されている。

また、入間郡の勝楽寺にも、朝鮮半島系渡来人の伝説がある。

  1. 入間郡誌 
     
  1. 南部諸町村、
  2.  
  3. 山口村 
  4.  、
  5. 勝楽寺の項目である。

辰爾山仏蔵院大坊と称す。真福寺末也。創立甚だ古く、或は王辰爾の子其父の菩提の為めに開闢せりと云ふ。又王辰爾此地に於て終焉せしとの説もあり、野話に曰く、「山号を辰爾と云ふは恐らく敏達天皇の時、高麗より送れる鳥羽の表文を読み得たる王辰爾の墳墓あるがためならんか。」と然れども王辰爾は畿内にて死し、畿内に墳墓を有するが如く推定せらる。思ふに辰爾の後裔此の地に入り、此の寺をたてたるにや。野話尚曰く、「昔高麗人の来りし時、此の地に来り土地を見立てし上、今の高麗郡に住居なさしめ、其地に寺院なきを以て勝楽寺の住僧彼の地へ寺を建て、高麗山勝楽寺と同名を以て名けしならんと云ふ。後聖天を祀りし故、聖天院と云ふ」と。又曰く、「勝楽寺往古は大伽藍なり、鎌倉将軍の世々祈願所にして、十二の坊ありしが、鎌倉滅て次第に衰へ、今は七社権現の祠と勝楽寺大坊のみ残れり。十二の坊は其跡みな田畑となり、新田坊、テラウ坊、天狗坊、向坊、外坊、長明坊、東坊、北蓮坊、永源坊、勝般寺と地名に残れり。然れども三坊の名所知れず。大坊の鐘は延久の比のものなりしが。災に遇ひて、亀裂を生ぜし故、元禄年間改鋳して、延久の銘を刻り出し之に追加を加へり」と。又曰く、「大坊の西南堂地入と云ふ小地名あり。此の地より布目ある瓦を夥しく穿出せり。国分寺の瓦に似て重きこと、鉄の如し。又村中古き石碑(石の板碑也)処々にあり」。と。」

勝楽寺 : 山口村 : 南部諸町村(所沢町付近、柳瀬川沿岸地方) : 入間郡誌



2025年4月11日金曜日

平城京へ運搬する品々

以下で列挙する品々は平城京へ運搬された品々である。全国から多数の人々が上京し、貢納する姿の一端を知りたいためである。この人々が遠路はるばる、北は陸奥国から、南は大宰府から様々な品物を運搬したので、平城京への道々はさぞやごった返したに違いない。

『延喜式』民部式下に、
1)「巻23/民部下/49/年料舂米⇒伊勢国〈大炊一千七十石、糯卅石、〉 尾張国〈大炊一千八十石、糯廿石、〉 参河国〈大炊七百石、〉 近江国〈内蔵五十石、省五百石、大炊一千二百石、糯卅石、〉 美濃国〈内蔵廿石、大炊一千四百石、糯廿石、〉 若狭国〈大炊二百石、〉 越前国〈内蔵五十石、大炊六百五十四石、糯廿石、〉 加賀国〈大炊四百五十五石、糯十石、〉 丹波国〈内蔵廿石、大炊五百石、糯廿六石、〉 丹後国〈大炊五百石、〉 但馬国〈大炊五百石、〉 因幡国〈大炊四百石、〉 播磨国〈内蔵卌石、大炊一千一百石、糯廿四石、〉 美作国〈大炊一千百石、糯十石、〉 備前国〈内蔵廿石、大炊一千一百七十石、〉 備中国〈大炊一百五石五斗九升、糯廿石、〉 備後国〈大炊一千一百九十五石四斗三升五合、〉 安芸国〈大炊六百石、〉 紀伊国〈大炊二百石、〉 讃岐国〈大炊一千四百石、糯卅石、〉 伊予国〈大炊一千四百石、糯廿石、〉 土佐国〈大炊四百石〉
右廿二国各以正税舂運、白米送大炊寮、黒米送省及内蔵寮、其運送徭夫竝給路粮、」
とあり、

2)「巻23/民部下/50/凡諸国舂米運京者、伊勢、近江、丹波、播磨、紀伊等国二月卅日以前、尾張、参河、美濃、若狭、越前、加賀、丹後四月卅日以前、但馬、因幡、美作、備前、讃岐六月卅日以前、備中、備後、安芸、伊予、土佐八月卅日以前、竝送納訖、若有未進者、准数奪専当郡司職田直、若不足者、亦没国司公廨、」

さらに
3)「巻23/民部下/51/年料租舂米⇒尾張国〈一千石、〉 参河国〈一千石、〉 遠江国〈一千三百石、〉 近江国〈二千石、〉 美濃国〈二千三百斛、〉 若狭国〈八百石、〉 越前国〈一千三百石、〉 加賀国〈一千三百石、〉 丹波国〈一千石、〉 播磨国〈二千斛、〉 美作国〈一千斛、〉 備前国〈二千斛、〉 備中国〈一千石、〉 備後国〈一千石、〉 安芸国〈一千斛、〉 讃岐国〈二千斛、〉 伊予国〈二千斛、〉 土佐国〈五百石、〉
右十八国各以租穀内舂収、随官符到進之、其精代運賃用正税、不聴妄為頴闕本也、

4)「巻23/民部下/52/年料別納租穀⇒伊賀国〈二千石、〉 伊勢国〈四千五百斛、〉 駿河国〈三千五百斛、〉 伊豆国〈一千五百斛、〉 甲斐国〈三千五百斛、〉 相摸国〈三千五百「五」石、〉 武蔵国〈一万二千石、〉 上総国〈四千六百九十斛、〉 下総国〈一万四千斛、〉 常陸国〈一万二千斛、〉 信濃国〈一万二千斛、〉 上野国〈一万七百卌五石、〉 下野国〈一万一千斛、〉 能登国〈四千斛、〉 越中国〈四千斛、〉 越後国〈七千斛、〉 丹後国〈九百八石、〉 但馬国〈二千九石、〉 因幡国〈二千五百斛、〉 伯耆国〈四千六百卌斛、〉 出雲国〈四千五百斛、〉 石見国〈二千五百斛、〉 長門国〈二千卅七石、〉 紀伊国〈三千百石、〉 淡路国〈一千六百斛、〉
右廿五国各別納租穀内、随官符到、充位禄、季禄、衣服等料、」

とある。



巻23/民部下/53/年料別貢雑物⇒
伊賀国〈紙麻五十斤、〉
 伊勢国〈筆一百管、紙麻一百十斤、〉
 尾張国〈筆一百管、紙麻九十斤、青木香一百六十斤、馬革六張、〉 
参河国〈筆一百五十管、紙麻十斤、黄楊六枚、〉
遠江国〈筆一千管、零羊角四具、〉 
駿河国〈筆一百管、零羊角四具、〉 
伊豆国〈零羊角四具、甘葛汁二斗、〉 
甲斐国〈筆卅管、零羊角六具、胡桃子一石五斗、〉 
相摸国〈筆一百管、零羊角四具、青木香八十斤、牧牛皮、〉 
武蔵国〈筆一百管、膠五十斤、麻黄五斤、麻子六斗、〉 
安房国〈長海松二篭、〉 
上総国〈筆一百管、牧牛皮六張、〉 
下総国〈筆一百管、牧牛皮六張、牛角十二口、麻子七斗、〉 
常陸国〈筆三百管、麻子七斗、〉 
近江国〈筆二百管、紙麻一百十斤、零羊角四具、馬革十七張、〉 
美濃国〈筆一百五十管、紙麻六百斤、支子二石、青木香卅斤、零羊角六具、馬革廿四張、〉 信濃国〈筆一百卅管、零羊角六具、木賊二圍、樺皮二圍、〉 
上野国〈筆一百管、零羊角六具、杏仁三斗、膠十二斤、樺皮四張、〉 
下野国〈筆一百管、麻紙一百張、麻子三斗、〉 
陸奥国〈筆一百管、零羊角四具、〉 
出羽国〈零羊角十具、紙麻一百斤、〉 
若狭国〈零羊角十具、紙麻一百斤、〉 
越前国〈筆五十管、紙麻一百斤、零羊角十具、甘葛汁一斗、〉 
越中国〈零羊角二具、〉 
越後国〈零羊角六具、〉 
丹波国〈墨二百廷、紙麻七十斤、漆二斗七升、柏一百廿俵、以五十把為俵、把別五十枚、掃墨一石、斐紙麻一百斤、〉 
但馬国〈筆八十管、紙麻七十斤、馬革十一張、〉
因幡国〈筆八十管、紙麻七十斤、〉 
伯耆国〈筆八十管、紙麻七十斤、〉 
出雲国〈筆五十管、〉 
播磨国〈筆一百卅管、墨三百五十廷、紙麻二百十斤、掃墨二石、馬革卅二張、柏一百俵、〉 美作国〈筆六十管、紙麻七十斤、〉
備前国〈筆一百管、紙麻五十斤、牧牛皮六張、〉 
備中国〈紙麻九十斤、〉 
備後国〈斐紙麻二百斤、〉 
安芸国〈零羊角四具、〉 
周防国〈斐紙麻二百斤、〉 
長門国〈牧牛皮八張、〉 
紀伊国〈紙麻七十斤、鎌垣船九隻、〉 
阿波国〈筆八十管、紙麻七十斤、斐紙麻一百斤、馬革十張、〉 
讃岐国〈紙麻百五十斤、牧牛皮十張、斐紙麻一百斤、〉 
伊予国〈筆一百管、梹榔「櫛」二百枚、牧牛皮三張、斐紙麻一百斤、〉 
土佐国〈零羊角四具、黄楊六枚、〉 
太宰府〈筆一千一百廿管、兎毛、鹿毛各五百六十管、墨四百五十廷、以上二種盛韓櫃一合、斐紙一千張、麻紙二百張、斐麻二百斤、麦門冬二斛二斗、紫草日向八百斤、大隅一千八百斤、青砥二百顆、赤木南島所進、其数随得、〉
右別貢雑物竝依前件、自余雑薬見典薬式、其運送徭夫各給路粮、
太宰府〈銀八百九十両、深紫帛五十疋、浅紫帛一百疋、深緋綿紬廿四疋、浅緋綿紬六十六疋紺紬十疋、深紫貲布廿端、浅紫貲布廿端、深緋貲布卅端、浅緋貲布卅端、白貲布五十端、紫革卌張、緋革卌張、纈革卅張、画革廿張、洗革一百張、白革卅張、海石榴油十石、席二千枚、〉右管国調物、依件染造、其雑綵并草等、並盛韓櫃、其運脚者並給功食、


巻23/民部下/54/
凡太宰府毎年調絹三千疋附貢綿使進之、又隼人調布、除府家三箇年雑用料之外、付使進上、

巻23/民部下/55/
凡太宰所収調糸、除儲料五百絇之外、毎年附貢綿使進之、

巻23/民部下/56/
凡太宰府年料造進朱漆酒海六合、〈三合径二尺、三合径一尺六寸、〉下食盤六十枚、〈径一尺七寸、〉中盤八十八枚、〈径一尺、〉飯椀一百口、〈径七寸、〉羮椀二百口、〈百口径六寸五分、百口径六寸、〉盤四百五十枚、〈卅枚径七寸、二百廿枚径六寸、二百枚径五寸五分、〉盞二百五十口、〈百五十口径五寸、百口径四寸五分、〉黒漆提壷十四口、
右以正税充料造進

巻23/民部下/57/
諸国貢蘇番次
伊勢国十八壷〈七口各大一升、十一口各小一升、〉 
尾張国〈十五壷五口各大一升、十口各小一升、〉 
参河国十四壷〈四口各大一升、十口各小一升、〉 
遠江国十四壷〈四口各大一升、十口各小一升、〉 
駿河国十二壷〈四口各大一升、八口各小一升、〉 
伊豆国七壷〈竝小一升、〉 
甲斐国十壷〈竝小一升、〉 
相摸国十六壷〈六口各大一升、十口各小一升、〉
右八箇国為第一番〈丑未年〉

伊賀国七壷〈竝小一升、〉 
武蔵国廿壷〈七口各大一升、十三口各小一升、〉 
安房国十壷〈竝小一升、〉 
上総国十七壷〈七口各大一升、十口各小一升、〉 
下総国廿壷〈八口各大一升、十二口各小一升、〉 
常陸国廿壷〈十口各大一升、十口各小一升、〉
右六箇国為第二番〈寅申年〉

近江国十八壷〈七口各大一升、十一口各小一升、〉 
美濃国十七壷〈七口各大一升、十口各小一升、〉 
信濃国十三壷〈五口各大一升、八口各小一升、〉 
上野国十三壷〈五口各大一升、八口各小一升、〉 
下野国十四壷〈五口各大一升、九口各小一升、〉 
若狭国八壷〈竝小一升、〉 
越前国十五壷〈六口各大一升、九口各小一升、〉 
加賀国十五壷〈六口各大一升、九口各小一升、〉

右八箇国為第三番〈卯酉年〉

能登国九壷〈三口各大一升、六口各小一升、〉 
越中国十壷〈四口各大一升、六口各小一升、〉 
越後国十一壷〈四口各大一升、七口各小一升、〉 
丹波国十一壷〈三口各大一升、八口各小一升、〉 
丹後国八壷〈二口各大一升、六口各小一升、〉 
但馬国十一壷〈三口各大一升、八口各小一升、〉 
因幡国十一壷〈三口各大一升、八口各小一升、〉 
伯耆国十一壷〈三口各大一升、八口各小一升、〉 
出雲国十一壷〈三口各大一升、八口各小一升、〉 
石見国八壷〈二口各大一升、六口各小一升、〉

右十箇国為第四番〈辰戌年〉

太宰府七十壷〈十五口各大一升、卅五口各大五合、〈廿口各小一升、〉

右為第五番〈巳亥年〉

播磨国十五壷〈六口各大一升、九口各小一升、〉 
美作国十一壷〈三口各大一升、八口各小一升、〉 
備前国十壷〈二口各大一升、八口各小一升、〉 
備中国十壷〈二口各大一升、八口各小一升、〉 
備後国七壷〈二口各大一升、五口各小一升、〉 
安芸国八壷〈二口各大一升、六口各小一升、〉 
周防国六壷〈竝小一升、〉 
長門国八壷〈竝小一升、〉 
紀伊国七壷〈二口各大一升、五口各小一升、〉 
淡路国十壷〈四口各大一升、六口各小一升、〉 
阿波国十壷〈四口各大一升、六口各小一升、〉 
讃岐国十三壷〈五口各大一升、八口各小一升、〉 
伊予国十二壷〈四口各大一升、八口各小一升、〉 
土佐国十壷〈四口各大一升、六口各小一升、〉

右十四箇国為第六番〈子午年〉

巻23/民部下/58/凡

諸国貢蘇、各依番次、当年十一月以前進了、但出雲国十二月為限、輪転随次、終而復始、其取得乳者、肥牛日大八合、痩牛減半、作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升、但飼秣者頭別日四把、

巻23/民部下/59/
年料雑器
尾張国瓷器、[疾脂反瓦器也]大椀五合、〈径各九寸五分、〉中椀五口、〈径各七寸、〉小椀、〈径各六寸、〉茶椀廿口、〈径各五寸、〉盞五口、〈径各四寸七分、〉中擎子十口、〈径各五寸、〉小擎子五口、〈径各四寸五分、〉花盤十口、〈径各五寸五分、〉花形塩杯十口、〈径各三寸、〉瓶【瓦+并】十口、〈大四口、小六口、〉

長門国瓷器、大椀五合、〈径各九寸五分、〉中椀十口、〈径各七寸、〉小椀十五口、〈径各六寸、〉茶椀廿口、〈径各五寸、〉花盤卅口、〈径各五寸五分、〉花形塩杯十口、〈径各三寸、〉瓶【瓦+并】十口、〈大四口、小六口、〉

右両国所進年料雑器、並依前件、其用度皆用正税、

巻23/民部下/60/
交易雑器
山城国、酒槽卅一隻、円槽七隻、臼十腰、杵十五枚、槽八口、置簀十三枚、匏三百卌柄、輦篭五十四脚、⇒大和国、酒槽七隻、〈二隻長各八尺、広二尺三寸、深八寸、手長一尺、五隻長各六尺、広二尺五寸、深八寸、手長九寸、〉円槽二隻、〈口径各二尺五寸、手長一尺、〉槽二口、〈一口高二尺七寸、口径二尺一寸、一口高二尺二寸、口径二尺、〉臼三腰、〈高各二尺二寸、径二尺一寸、〉杵六枚、〈長各三尺、〉輿篭廿口、瓠三百廿五柄、置簀四枚、

河内国、酒槽卅四隻、〈十一隻長各一尺、広二尺五寸、深八寸、手長一尺三寸、十一隻長各六尺、広二尺三寸、深八寸、手長一尺、十二隻高二尺七寸、口径二尺一寸、手長九寸、〉臼六腰、杵六枚、輿篭卅口、匏二百廿五柄、置簀卅枚、〈長各八尺、広四尺、〉
和泉国、酒槽七隻、〈長各九尺、広二尺七寸、手長一尺三寸、〉円槽二隻、槽二口、臼三腰、杵六枚、輿篭十一口、匏一百五柄、置簀廿枚、
摂津国、酒槽十七隻、〈長各八尺、広二尺三寸、手長一尺、〉円槽四隻、槽六口、輿篭五十口、臼八腰、杵十四枚、匏一百七十五柄、置簀五十四枚、

巻23/民部下/61/
五畿内、丹波等国、例進雑器并檞、十月以前充進、若致未進、移式部省、不聴国司預新甞会節、

巻23/民部下/62/
交易雑物
山城国〈大麦三石、小麦卅石、大角豆六石、胡麻子四石、荏子四石、〉 
大和国〈大麦三石、小麦十一石七升三合、■【クサカンムリ+皇】子六斗、大角豆四石、〉
河内国〈大麦三石、小麦卅五石、■【クサカンムリ+皇】子五斗、薦二千五百枚、〉 
和泉国〈小麦廿五石、〉 摂津国〈大麦三石、小麦卅五石一斗、■【クサカンムリ+皇】子九斗、薦一千五百枚、〉 
伊賀国〈白絹十二疋、鹿皮廿張、樽二合、加赤漆朸、以下皆同、〉 
伊勢国〈白絹十二疋、絹三百疋、水銀四百斤、樽二合、鹿角菜二石、青苔五十斤、海松五十斤、凝菜卅斤、於胡菜卅斤、鳥坂苔五斤、海藻根十斤、那乃利曽五十斤、〉 
志摩国〈大凝菜卅四斤、白玉千顆、〉 
尾張国〈白絹十二疋、絹百五十疋、油三石、樽二合、苧一百十斤、鹿革廿張、鹿皮十張、鹿角十枚、薭子五石、胡麻子四石、荏子四石、鹿角菜三石、凝菜卌斤、於胡菜卅斤、〉 
参河国〈白絹百廿疋、鹿革六十張、樽二合、苧九十斤、黍子廿石、胡麻子三石、鹿角菜二石、海松五十斤、凝菜卅斤、海藻根十斤、青苔五十斤、鳥坂苔五十斤、於胡菜卅斤、那乃利曽五十斤、〉 
遠江国〈絹六十八疋、苧一百卅斤、鹿皮十張、鹿革卅張、木綿四百七十斤、樽二合、凝菜卅斤、海藻根十斤、胡麻子二石、大匏卅口、干薑一百斤、種薑十石〉 
駿河国〈絹二百疋、商布二千一百端、端別長二丈六尺、鹿革卌張、樽二合、〉 
伊豆国〈猪皮十張、鹿皮卅張、堅魚煎一石四斗六升、櫑子「十」四合、〉 
甲斐国〈商布四千一百端、履料牛皮三張、鹿皮卅張、紫草八百斤、鹿革十張、猪脂一斗、櫑子四合、〉 
相摸国〈商布六千五百端、豉二石五斗、鹿皮廿張、鹿角十枚、紫草三千七百斤、布一千五百端、鞦十具、鹿革廿張、履牛皮十二枚、櫑子四合、〉 
武蔵国〈絁五十疋、布一千五百端、商布一万一千一百端、豉六石五斗、竜鬚席卅枚、細貫席卅枚、席五百枚、履料牛皮二枚、鞦廿具、鹿革六十張、鹿皮十五張、紫草三千二百斤、木綿四百七十斤、櫑子四合、〉 安房国〈商布二千二百八十段、鹿革廿張、櫑子四合、〉 
上総国〈絁五十疋、商布一万一千四百廿段、布一千五百九十端、腐革八張、鹿皮五十張、洗革一百張、鹿角十枚、鑣廿具、木綿四百七十斤、櫑子四合、〉 
下総国〈布一千五百九十端、商布一万一千五十段、鹿革廿張、皺文革十張、紫草二千六百斤、櫑子四合、〉 
常陸国〈絁一百疋、布四千端、商布一万三千端、庸布七百段、鞍橋十具、鞦廿具、履料牛皮九張、鹿皮廿張、洗革一百張、鹿角十枚、席六百枚、紫草三千八百斤、大瓢十口、櫑子四合、〉 
近江国〈白絹十二疋、曝黒葛卅斤、刈安草五百圍、曝皮十張、大豆六十石、胡麻子五石、醤大豆廿石、油二石、樽二合、隔三年進醤大豆十石、大豆十四石、〉 
美濃国〈絹二百疋、胡麻子四石、荏子十二石、鹿革卅張、油二石、白絹十二疋、樽二合、隔三年進金漆二斗、〉 
信濃国〈商布六千四百五十端、熟麻十斤、履牛皮三張、鹿皮九十張、洗皮十五枚、紫草二千八百斤、布一千五百端、細貫莚五十枚、円長猪脂一斗、櫑子四合、〉 
上野国〈絁五十疋、布一千五百九端、商布七千七百卅一段二尺二寸八分、苧八十斤、席九百枚、細貫席六十枚、紫草二千三百斤、鹿革六十張、覆料牛皮廿張、櫑子四合、〉 
下野国〈布一千四百卅六端、商布七千三段、履料牛皮七張、洗革一百張、鹿角十枚、席八百枚、砂金百五十両、練金八十四両、紫草一千斤、氈十張、櫑子四合、〉 
陸奥国〈葦鹿皮、独犴皮数随得、砂金三百五十両、昆布六百斤、索昆布六百斤、細昆布一千斤、〉 出羽国〈熊皮廿張、葦鹿皮、独犴皮数随得、〉 
若狭国〈烏賊三百斤、小鰯腊一石一斗、樽二合、〉 
越前国〈絹二百六十二疋、履料牛皮六張、漆一石五斗、曝黒葛卅斤、〉 
加賀国〈絹一百六十二疋、履料牛皮二張、漆一石五斗、荏油二石、樽二合、〉 
能登国〈絹十二疋、鹿皮十張、履料牛皮四張、海鼠腸一石、櫑子四合、〉 
越中国〈絹百疋、商布一千二百段、履料牛皮四張、曝黒葛廿斤、編筥三百十九合、織筥廿八合、漆一石三斗、〉 
越後国〈商布一千端、漆五斗、櫑子四合、履料牛皮八枚、〉 
丹波国〈白絹十二疋、赤絹五百五十疋、糸七百五十絇、油三石、鹿革十張、粟十石、大豆卅石、胡麻子五石、栗子卅石、曝黒葛廿斤、刈安五百圍、隔三年進醤大豆五石、〉 
丹後国〈絹二百五十疋、白絹十二疋、鹿革十張、樽二合、小鰯腊十二篭、〉 
但馬国〈絹七百卅七疋、糸一千斤、鮐皮一百五十斤、醤大豆廿六石、隔三年進醤大豆五石、〉 
因幡国〈絹二百疋、白絹十二疋、席三百五十枚、荒筥廿五合、櫑子四合、鮐皮八百廿五斤、醤大豆廿六石、隔三年進醤大豆五石、鹿皮十張、〉 
出雲国〈絹二百卅七疋四尺、鹿革廿張、席三百枚、青苔卅斤、海松一百斤、海藻根十斤、鳥坂苔五斤、紫草一百斤、鹿皮廿張、櫑子四合、〉 
石見国〈綿六百八十七屯八両、青苔卅斤、海松一百斤、海藻根十斤、鳥坂苔五斤、紫草一百斤、櫑子四合、鹿革卅張、〉 
播磨国〈白絹十二疋、絹三百五十疋、大豆廿六石、胡麻子三石、油二石、鹿革五十張、樽二合、小豆三石、鹿角菜二石、青苔卅斤、於胡菜廿斤、那乃利曽卅斤、〉 
美作国〈絹四百七十五疋、油三石、猪脂一斗、櫑子四合、鹿革十張、鹿皮廿張、鹿角十枚、大豆十石、小豆六石、醤大豆廿石、隔三年進醤大豆十五石、〉 
備前国〈絹三百疋、白絹十二疋、油三石四升、胡麻子三石、櫑子四合、苫十五枚、鹿革廿張、鹿皮十張、鹿角十枚、小豆十九石七斗、醤大豆廿五石、大豆卌四石七斗、秣料八十石隔三年進醤大豆十石、〉 
備中国〈白絹十二疋、油一石四升、朴消一百斤、小豆一石六斗、苫廿五枚、櫑子四合、鹿皮五十、大豆廿八石、醤大豆卌四石、隔三年進醤大豆七石、小豆十六、〉
 備後国〈白絹十二疋、油二石、櫑子四合、鹿角十枚、大豆十六石七斗、小豆一石七斗、胡麻子二石、醤大豆六十石、隔三年進醤大豆十石、〉
安芸国〈白絹十二疋、糸八百絇、木綿二百五十斤、油三石四升、苫廿五枚、櫑子四合、鹿皮廿張、鹿革廿張、〉 
周防国〈鹿革廿張、席三百五十枚、苫廿五枚、櫑子四合、〉 
長門国〈鹿革廿張、胡粉廿斤、緑青廿斤、丹六十斤、海藻一百五十斤、苫廿五枚、櫑子四合、〉 
紀伊国〈白絹十二疋、絹二百疋、鹿革十張、鹿角菜二石、青苔五十斤、海松卌斤、海藻根十斤、鳥坂苔五斤、那乃利曽五十斤、樽二合、大凝菜一百斤、於胡菜卅斤、大豆廿石、小豆卅石、胡麻子五石、醤大豆十石、隔三年進大豆三石、〉 
阿波国、〈絹三百疋、白絹十二疋、油二石四升、亀甲六枚、鹿皮十張、粟廿石、小豆十六石、秣料大豆八十石、胡麻子四石、小麦七十石、凝菜七斗、青苔廿斤、海藻根、於期菜六斗、鹿角菜二石、苫廿五枚、樽二合、醤大豆廿二石、隔三年進醤大豆五石、〉 
讃岐国〈白絹十疋、鹿革廿張、苫廿五枚、菅円座卌枚、櫑子四合、鹿子皮十五張、金漆一斗五升、醤大豆卌二石、隔三年進醤大豆五石、大豆十八石、〉 
伊予国〈鹿革五十枚、鹿皮十張、砥一百八十顆、大豆十八石、海藻根十斤、那乃利曾五十斤、苫五十枚、樽二合、胡麻子五石、醤大豆卅二石、隔三年進醤大豆五石、〉 
土佐国〈亀甲四枚、煮塩年魚五缶、紫菜一百五十斤、苫廿五枚、櫑子四合、〉 
太宰府〈絹四千疋、履料牛皮廿四張、狸皮十張、銀三百両、金漆五缶、朱砂一千両、茜二千斤、紫草五千六百斤、猪膏二石、雑油卅石、梹榔馬蓑六十領、同螻蓑百廿領、藺帖笠百卅蓋、黒漆鞍十具、鉄鎧廿隻、〉
右以正税交易進、其運功食並用正税、但下野国砂金者、使徭夫採、食亦充正税、其太宰雑油卅石、中男作物若満此数者、更不交易、

巻23/民部下/63/
凡諸国雑交易、不論正税地子、便附貢調使、不差専使、

巻23/民部下/64/
凡諸国年料雑交易物者、当年充進、不得踰年、若有未進、拘調庸返抄、

巻23/民部下/65/
凡有雑交易未進者、准雑米未進例、奪郡司職田直、若不足者、没国司公廨、

巻23/民部下/66/凡諸国大未進、小未進等帳者、勘録国司功過、毎年正月五日以前進官、
巻23/民部下/67/凡京職諸国郡司功過帳、主計、主税勘定送省、畿内十月二日、外国十一月二日申官、
巻23/民部下/68/
凡勅旨交易絹、并商布減直者、去年料附当年使、待充前年料、乃放後年返抄、其運賃用減直内、穀倉院交易准此、

巻24/主計上/1/
凡左右京、五畿内国調一丁輸銭随時増減、其畿内輸雑物者、一丁藺笠二枚、四丁狭席五枚、〈長一丈、広三尺六寸、〉葉薦五枚、〈長二丈、広四尺、〉三丁広席二枚、〈長一丈、広四尺、〉二丁黒山席一枚、〈長一丈二尺、広四尺、〉折薦三枚、〈長二丈、広三尺六寸、〉一丁食薦七枚、〈長六尺、広二尺五寸、〉五丁明櫃四合、〈長三尺六寸四分、広二尺二寸、深九寸、〉三丁柳筥一合、〈長二尺二寸、広二尺、深四寸、〉一丁藺笥二合、〈径六寸、深五寸、〉箕二枚、明櫃二合、〈長二尺二寸四分、広一尺七寸、深一尺一寸、〉明櫃六合、〈長二尺、広一尺六寸、深一尺一寸、〉折櫃五合、〈長二尺、広一尺四寸、〉麻笥六合、〈径一尺五寸、深二寸五分、〉板笥廿五合、〈径五寸、深二寸五分、〉円笥七合、〈径二尺八寸、深二寸、〉陶器、八丁池由加、■【瓦+長】各一口、〈受五石、〉二丁瓼一口、〈受一石二斗、〉缶三口、〈受五斗、〉一丁由加一口、〈受一石、〉燼瓫二口、〈受三斗、〉脚短杯有蓋十三合、〈受一斗、〉無蓋廿口、〈受三合、〉筥杯卅四口、〈受四合、〉水椀有蓋十三合、無蓋廿五口、〈各受一升、〉多志羅加二口、〈受一斗、〉大山■【瓦+嬰】二口、〈受一斗五升、〉叩瓫二口、〈受三升、〉■【瓦+泉】十口、〈受五升、〉水瓫三口、〈受二斗、〉大■【瓦+嬰】三口、〈受一斗、〉洗盤三口、〈受一斗已上、〉中■【瓦+嬰】四口、〈受八升、〉平瓶【瓦+并】四口、〈受五升、〉酒壷四口、〈受五升、〉等呂須伎四口、〈受五升、〉缶蓋六口、〈径六寸、〉高盤七口、〈高六寸、径一尺二寸、〉小■【瓦+嬰】八口、〈受三升、〉鉢八口、〈受五升、〉臼八口、〈受三升、〉水瓶【瓦+并】十口、〈受五升、〉酒垂十口、〈径一尺二寸、〉祭壷十口、〈受三升、〉短女坏廿口、小坏廿六口、〈各受三合、〉片盤廿五口、〈径九寸、〉韲坏、燈盞各五十口、〈各受二合已上、〉土師器一丁、火炉蓋八口、〈径一尺五寸、〉平鍋五十口、〈受二升、〉玉手土師鉢五十口、〈受一升、〉間坏一百口、〈受五合、〉贄土師鋺形五十口、〈径六寸、〉片盤五十口、〈径一尺、〉餺餅器二口、〈径一尺、〉竃二口、〈高一尺五寸、〉竃子十口、〈受一斗、〉甑十口、〈受六升、〉手洗盤二口、〈径二尺、〉手湯瓫二口、〈径六寸、受一斗、〉水椀十口、〈受二升、〉瓫八口、〈受一斗、〉大高盤七口、〈高五寸、径一尺二寸、〉粥前下盤六合、〈径一尺四寸、〉粥盤六合、〈径一尺四寸、〉酒盞、汁漬坏各廿合、〈各口径五寸、受五合、〉中片坏七十五口、〈径六寸、受四合、〉吐盤三口、〈径一尺八寸、〉坏作土師酒盞六十合、〈径五寸、〉小高盤卌八口、〈高五寸、径六寸、〉中片坏一百九十九口、〈径六寸、〉其外国百姓逃亡居住畿内、一丁輸銭二百五十文、庸一百廿五文、

巻24/主計上/2/
凡諸国輸調、両面十一丁成疋、〈丁別輸糸国以徭夫織成、羅綾准此、〉雑羅三丁成疋、二色綾十丁成疋、一窠綾、二窠綾、三窠綾、七窠綾、小花綾、小鸚鵡綾、薔薇綾、二花綾、菜花綾、竝上糸国七丁成疋、中糸国六丁成疋、〈讃岐国五丁成疋、〉麁糸国五丁成疋、〈相摸国三窠綾、七窠綾四丁成疋、〉続花綾、瓜核綾、中糸国、野草綾、麁糸国、竝三丁成疋、大結花綾、連水綾、小車牙綾、散花単綾、小蓮花綾、小結花綾、上糸国、呉服綾、中糸国、竝三丁半成疋、絹、絁、〈両面已下各長六丈、広一尺九寸、〉広絹、〈長四丈五尺六寸、広二尺五寸、〉竝四丁成疋、長絹、〈長七丈五尺、広一尺九寸、〉長幡部絁、〈長六丈、広一尺九寸、〉竝五丁成疋、綿紬三丁成疋、〈長四丈五寸、広一尺九寸、但西海道諸国、長三丈九尺、〉貲布、〈長四丈、広二尺、〉望陀貲布、〈長八丈、広一尺八寸、〉竝四丁成端、細貲布、〈長六丈五尺、広一尺九寸、〉小堅貲布、〈長八丈、広二尺、〉薄貲布、〈長八丈、広一尺九寸、〉望陀布、〈長四丈二尺、広二尺八寸、〉広布竝三丁成端、細布二丁成端、倭文、調布竝三丁成端、〈各長四丈二尺、広二尺四寸、大隅薩摩両国調布四丁成端、〉狭布二丁成端、〈長三丈七尺、広一尺八寸、〉糸一丁成絇、〈上糸四両、中糸五両、麁糸七両各為絇、〉畳綿二帖、細屯綿二屯、〈各三両一分二銖為帖屯、〉綿二屯、〈四両為屯、〉銀一分、鉄二廷、〈三斤五両為廷、〉鍬三口、大鹿皮一張、〈六尺已上、〉小鹿皮二張、〈四尺已上、〉長席二枚、〈長二丈、広三尺六寸、〉短席二枚、〈長一丈、広三尺六寸、西海道諸国広四尺、〉柳筥一合、〈長二尺二寸、広二尺、深四寸、〉陶器三丁池由加、■【瓦+長】各一口、〈各受五石、〉一丁瓼二口、〈受一石五斗、〉小由加四口、〈受一石、〉小甕三口、酒壷六合、缶六口、瓫十二口、炉瓫八口、着乳瓫八口、〈受三斗、〉洗盤、水瓶【瓦+并】、大酒瓶【瓦+并】、平瓶【瓦+并】、有蓋無柄大瓶【瓦+并】、有柄大瓶【瓦+并】、大壷、大高盤各十二口、叩瓫、麻笥、盤各八口、大盤十二合、負瓶【瓦+并】八口、筥瓶【瓦+并】、臼各廿四口、鉢卅口、酢瓶【瓦+并】下盤、有柄酢、瓶【瓦+并】小盤、筥杯、様脚短坏、凡椀各卌口、小壷、小■【瓦+嬰】廿四口、有蓋椀、小瓶【瓦+并】各廿口、御椀廿口、有柄中瓶【瓦+并】、中壷各十六口、小盤廿二合、有柄小瓶【瓦+并】卅口、片椀卅八口、箸壷、片盤八十四口、深坏六十口、御取坏、大小筥坏、菜坏、片坏各八十二口、〈西海道片坏二百口、〉韲坏百口、〈有蓋五十四口、〉燈盞二百口、猴膝研二口、清坏八十口、斐坏百廿口、乳戸四口、後盤卅四口、赤土一斗五升、米六斗、〈壱岐嶋小麦、小豆二斗、大豆四斗、〉塩三斗、海石榴油一升二合、〈壱岐嶋一升三合三勺、〉御取鰒、着耳鰒各四斤、耽羅鰒六斤、鳥子鰒、都都伎鰒各二斤、放耳鰒三斤五両、長鰒、短鰒、凡鰒、串鰒、横串鰒、細割鰒、葛貫鰒、火焼鰒、羽割鰒、蔭鰒、薄鰒各六斤、〈壱岐島三斤、〉乾鮹九斤十三両、乾螺十斤十両、堅魚九斤、〈西海道諸国十一斤十両、〉烏賊十斤、久恵■【月+肅】、鮫■【月+肅】各卅三斤五両、煮堅魚六斤七両、熬海鼠八斤十両、棘甲蠃、甲蠃各六斗、鮭廿隻、雑魚腊廿六斤、鮹腊四斤、醤鮒、鮨鮒各卅二斤、腐耳鰒十四斤、甘鮨鰒廿八斤、鮨鰒、貽貝、冨耶交鮨各卌六斤、貽貝鮨三斗、雑魚鮨八十斤、海鼠膓十五斤十両、雑魚楚割、魚捄割、鯛腊、蛎腊各十六斤十両、雑魚■【月+肅】卅三斤、漬塩雑魚、乾鰯各卅六斤、海藻、海松各卌三斤、〈但隠岐国卅三斤五両、〉紫菜、海藻根各十六斤、大凝菜、小凝菜、角俣菜各卌斤、滑海藻八十六斤十両、於期菜廿六斤十両、鹿俣菜卅三斤五両、沢蒜、嶋蒜各七十二斤、〈已上斤両竝大、下条亦同、〉

上総国天羽郡讃岐郷の「讃岐郷」は、讃岐国から移住した人々の居住地か?

 大山喬平氏(京都大学名誉教授)を中心にした「ムラの戸籍簿」研究会は、2009年4月に発足した、「ムラの戸籍簿」(=各国ごとの「郷村表」「郷村名郡別世紀別初出表」)を作成し、その成果を共有・発信していくための研究会である。

その規模や壮大であるが、実に地味で、有意義な研究である。この企画に賛同する方々すべての労苦に感謝したい。

その中の一つである。上総国天羽郡に下記の紹介がある。


讃岐郷☆[
磐井里
天羽郡天平6.7.27734〔 〕【讃岐】石上部忍山年〈四九上総国天羽郡讃岐郷磐井里少初位上戸主石上部大島戸之口〉県-古p.157
65 正倉院文書

今このデータベースでは39歳となっているが、正確には49歳が正しい。これは誤りではなく、記入ミスに属する。

この記事はこれだけでなく、
「読経 法花経 一部
   最勝王経一部
   方広経一部

誦経 観世音経一部
   八名経
   多心経

陀羅尼 大般若陀羅尼
    仏頂陀羅尼
    虚空蔵陀羅尼
    方広陀羅尼
    十一面教陀羅尼
    金勝陀羅尼
    唱礼具
    浄行十年
天平6年(734)7月27日」

と続く。
さて、49歳の石上部忍山は仏道に10年励み(「浄行十年」)、数多くの経典を読破している。
ここではその経典への関心は別に譲るとして、我々が注目するのは、
‘*上総国天羽郡讃岐郷
である。つまり「讃岐郷」とある以上、讃岐国から上総国天羽郡へ移り住んだ人々を想定したい。想像を交えていえば、その人々は「秦氏」であったと考える。



    

2025年4月2日水曜日

平城京の大路が混雑する理由は

 今津勝紀「税の貢進」『日本古代の交通・交流・情報』(1)所収(特に、74-75頁)に教わった点が、下記である。

それは地方から平城京へ上る貢納使たちの人数である。今津氏によると、当時の平城京を10万人(鬼頭清明説)だとすれば、

*たえず3000人から5000人

の地方から上京する一時的流入者が存在したと推定している。

これは着眼点の鋭い、すぐれた指摘である。


なお、今津氏の指摘を踏まえて追加すれば、

1,馬や

2,荷車(荷駄)

3,俵や木箱などの輸送ツール

4,木簡類

など地方からの輸送用備品も溢れていたと考えられる。

いずれにせよ今津氏の試論は今後の検証を俟つが、私見ではもう少し詳細に四度使や僧侶などの諸実態を見れば、その数ははるかに増加すると予想している。