1)本稿の問題の所在:大住郡大領外從七位上壬生直廣主の調庸代納は善行か?
「《巻9承和7年(840)二月壬申【廿五】》○壬申。相摸國大住郡大領外從七位上壬生直廣主。代窮民輸私稻一萬六千束。戸口増益五千三百五十人此善状。借外從五位下。」(『続日本後紀』巻9)
この記事によると、本来は徴税請負人であったはずの、大住郡の大領壬生直広主は「窮民」に対する共済策として、彼が私物する稲1万6千束を国衙へ代納したばかりではなく、大住郡の戸口が5350人増加したという。この「善状」で、外従七位上であった彼は「借」外従五位下を3階級特進して授けられたという<『三大格』天長元年八月二十日官符。および、『三代格』天長二年七月八日官符、巻六位禄季禄時服馬料事 参照のこと>。
2)論及すべき点は何か?
この善行記事で記述されていない論点はなにか?
まず、第1に、なぜ調を献納できない「窮民」が出現したのか?
第2に、なぜ、大領壬生直広主だけが稲1万6千束を個人的に所有できたか?観点を変えれば、人々は「窮民」、しかし大領だけは富の蓄積さえ可能であったのは、なぜか?
第3に、なぜ、「窮民」は逃亡・離散しないで、その逆に「戸口増益五千三百五十人」であったのか(仮に1戸約20名だとすれば、約260戸)。つまり、大住郡の「窮民」に加えて、「戸口増益五千三百五十人」の食糧や住居などはどのように調達したのか?
第4に、「戸口増益五千三百五十人」は、どこから大住郡に流入してきたのか?逆な見方をすれば、大住郡のみ「窮民」が出現するほどに「凡田有水旱蟲霜、不熟之処」などの事由があり、郡外は、あるいは国外はいかなる稲の生育状態であったのか?
第5に、なぜ、「戸口増益五千三百五十人」の流浪人(?)などを、大住郡の大領壬生直広主は本籍地に帰還させなかったのか?
第6に、なぜ、大住郡以外の地で「戸口増益五千三百五十人」が発生したのか?
第7に、「戸口増益五千三百五十人」の調庸はどうしたのか?それによって一定の公地に加えて、「戸口増益五千三百五十人」分の土地の配分は可能であったほど、新たな開拓地が出現できるのか?
第8に、「稲1万6千束」の代納は大住郡の何人分に該当するのか?
第9に、「稲1万6千束」はあくまでも「代納」であり、慈善事業ではなかった。「贈与」ではない以上、翌年の調庸はどのようになったのか? つまり、相模国大住郡大領壬生直広主のメリットは何であっただろうか?仮に、として単純計算するだけで、相当な利益が生じたはずである。それは暴利をむさぼるというべきか、それとも慈善事業であったか。
→調庸代納によって、位が上がれば、
墾田永年私財法における所有上限
5位:100町
6位:50町
郡司:30町
初位以下:10町
は無くなるので、そのメリットは大きかっただろう。
第10に、窮民にとって、本年の「稲1万6千束」は翌年の調庸に加算されるのであれば、その利子分を含めて、その翌年は返済できるほど、豊作であったのか?
第11に、なぜ平安京の朝廷側はも徴税請負人を高評価するのか。ここでの問題関心は相模国司と相模国大住郡大領壬生直広主との関係性である。借外五位に推薦されるのも、さらには外從五位下が大住郡大領壬生直広主に授与されるのも、相模国司の推挙であった。
『続日本後紀』承和10年(843)3月壬子条
「相摸国大住郡大領借外從五位下壬生直広主授外從五位下。以去承和七年国司
褒挙。今依 格所 授也」
本稿の筆者の貧弱な知識では、承和10年〈843)当時の相模国司の名を提示できないのは残念である。
<参考論文>
籔井 真沙美 「八世紀における賑給の意義と役割 ―飢疫記事からみた賑給制度」平成19年度~平成21年度科学研究費補助金(基盤研究(C)課題番号19520574)研究成果報告書 時空間情報科学を利用した古代災害史の研究 」4
佐藤早樹子「八・九世紀の財物貢献と報賞制度」『史観』182冊、23-42頁、2020年
]森田大貴「8,9世紀の貧窮者救済行為。褒賞者の検討を中心に」『史学』93巻、2024年
3)
ここまで書くと、日本古代史のプロの方々からお𠮟りを受ける前に、『養老令』賦役令の、
「凡田有水旱蟲霜、不熟之処、国司検実、具録申官」
とある記事を末尾に載録しておきたい。
残念なのは、この相模国大住郡大領壬生直広主の具体的報告書は今日まで残されていないので、彼を顕彰できないことである。
なお、壬生直に関する拙論は別には発表したので、関心のある方はご笑覧ください。
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