(1)相模国調邸「壱町」の面積
この土地売買証明書にある物件「調邸壹町在左京八条三坊」は、平城京東市場に隣接する超1級の商業・物流ビジネス地域である。そして、「東西市庄解」(天平勝宝八年<756>)に見るとおり、この敷地の東側に幅2丈の堀河(東市用運搬路の廃絶期は9世紀前半か)が南北に通っていた水運にも恵まれていた。多くの東市バイヤー(東市内で 店舗を開業した経営者<市司 に登録済みの「市人」あるいは「市籍人」、。延喜式に依拠すると、平安京の東市に 51、 西市に33の肆<業種別店舗>)にとって、垂涎の的であったに違いない。
条坊制における 1町(1町=1×1町区画) は
1町 = 60丈 × 60丈、1丈 ≒ 1.818m(大尺)の正方形の区画であるので、
60×1.818=109.08
109.08 m×109.08 m≈11,900m2= 約1.19ヘクタール(0.0119 km²)
である。これを現代の坪数に換算するならば、
1ヘクタール=10,000㎡
1坪=約3.3058㎡
1.19 ha=11,900 ㎡
11,900㎡÷3.3058坪=約3600坪
(2)相模調邸の復元予想
奈良国立文化財研究所編『平城京左京八条三坊発掘調査概報ーー東市周辺東北地域の調査』奈良県、昭和51年 3月 、 真 陽 社』によると、この想定される土地(1町=約109m四方)には、外郭構造として
①周囲を築地・板塀などで囲う区画施設
②東または南側に正門を設ける配置
であった。その区画の内部には、主要な機能として、調の保管と相模国人の宿泊施設、調の売買などを予想するので、
「入口近くに丼戸と雑舎があり、奥に主屋と二、三棟の付属屋がある程度で、堀河寄りの未 発掘地を加えて勘案しても、せいぜい4~ 5棟の建物に限られるようである。建物規模は、同様な傾向をもつ十坪、十六坪の例を加えて集計すると、桁行柱間数では2間が14棟、 3間が46棟、 4~ 6間が15棟となって、 3間以下が8割以上を占め、廂付き建物は4棟に限られる。柱 間寸法は4~10尺であるが、そのほとんどが桁行7尺、梁行6尺で、かつ完数値をとらない不揃いなものが多い。」(同報告書、46頁)
③倉庫群(棟数:複数棟)
④一時的滞在用宿泊棟
⑤事務・管理棟:
国司・郡司・調物担当者の執務用建物
に相当する建物群であっただろう。
⑥動線・出入口:
市・道路側(東市西辺)に向けた荷の出し入れ動線
内部は倉庫列の前面に広い前庭(荷置き場)
(3)換算方式
天平勝寳8歳2月6日(西暦 756年)時の1貫文をいかに現代に換算するか?
本稿での計算方法は、独自に 「1貫文=銅銭1000枚=米2石前後が買える額」 とみなし、米価を基準に換算。
米1石 ≒ 150kg
令和7年の米10kg は時価4,000円と規定 → 150kg = 60,000円 → 2石 = 120,000円
(4)「六十貫文」の換算
「左京八条三坊者 得價銭六拾貫文」
の 六十貫文 を、上記の方式で計算するならば、
1貫文 ≒ 12万円 と仮定
60貫文 = 60 × 12万円 = 約720万円
今回の史料では、東市に隣接する左京八条三坊約3600坪が居抜きで、得価銭六十貫文で売買されたとする記録である。
つまり 平城京の市街地、それも東市に隣接する稀少価値のある商業地域での土地売買 記録である。
平城京の標準的な土地価格は、それを裏付ける詳細な不動産価格データもないものの、
3600坪÷60貫= 1貫あたり60坪(=約198㎡)
となる。
さらに言えば、相模国調邸(1町=3600坪)が60貫文で売買されたということは、
坪単価:1坪=約0.016貫(=16文)<計算式は1貫=1000文、1坪=16文>
となる。天平勝宝8年段階で、1坪=16文が現代の不動産価格で高いのか、安いのかの判断は皆様にゆだねる。
なお、奈良時代の不動産常識では
町=60丈 × 60丈
1段=360歩(=60×6)
1里=60町
租税の基準:反別計算も60進的な構造
であるので、「60」は土地制度の基本単位であった。
それゆえに、相模国司と東大寺の不動産売買は「1貫=60坪」 と算定したらしい。
この相場感に即していえば、売買価格60貫文は東市に隣接する稀少物件であったので、東大寺にとっては投資物件としてはねらい目の物件であったに違いない。なぜならば、全国に東大寺の班田、つまり班田収授の法の枠外にある「寺田」であり、国家的寺院である東大寺の維持・造営のために恒常的に付与された不輸租田の数は、確かに民部省に保管されていたはずだが、現存しないので、不明。しかしながら、現存する30数点の荘園図の分布から、 大和国・山城国・河内国・摂津国・播磨国・備前国・周防国などに寺領があったと判明するので、全国各地の東大寺「寺田」から平城京東市に搬入される多様な物品と大量な物量に、東大寺はその保管場所を必要としていたに違いない。
寺田は単なる農地ではなく、東大寺という国家的大寺院を支える「全国的な供給ネットワーク」の基盤
すべてが
だから若干割高でも買い求める東大寺側の買い急ぐ理由があったか、あるいは地主の相模国司が売り急いだために取引相場よりも若干安い価格帯であったかは、いずれとも決しがたい。
(5)銭60貫の価値を知るための比較材料(物価調査)
<資料①>平宝字4年6月15日付土師男成銭用文(『大日本古文書』14ノ348~349)
合銭五十貫□(文)
用十貫五百四十五文
七十文 充自泉津運比蘇木雇車両賃
八百五十文 充運氷駄十五匹功
四十六文 充買堝三十六口并運人功
三十文 充買紙三十張直
五貫五十五文 充雑物直東市付価長志貴得万呂
百五十文 充布乃理十斤直
四十文 充前薦十枚直
四貫二百十六文 充買雑物直西市付小豆公万呂
三十八文 充買氷直
五十文 充自 市運銭雇人功
残 三十九貫四百五十五文 三貫七百五十文未 進 自主水司 見三十五貫七百五文
天平宝字四年六月十五日 土師男成
一、前件銭借収司家 大史生上毛野牛養
一、 「以六月十九日、依 牒、充三綱所銭二十九貫九百六十文 知判官下曰佐 出倉人 調付 上毛野広長
一、銭五貫七百四十五文 付史生三尾張隅足」
この資料は天平宝字4年【760】6月15日付け、土師男成が支払明細書であり、またその残金証明書である。ただし、彼の手元には、
+35貫705文
であったが、そのうちで東大寺三綱所に29貫960文を渡し、そして史生三尾張隅足に残りの5貫745文を渡したという証文である。
前後の文脈から考えて、この造東大寺司の役人である土師男成が50貫を持って、東市司の価長(「東市付価長志貴得万呂」)と西市司の価長(「西市付小豆公万呂」)との間で物品の値段交渉を行ったと理解できよう。
なお、土師男成が50貫をもって、平城京の東西市を駆けずり回った理由は、天平宝字4年6月7日に崩御した光明皇太后葬儀にかかわるショッピングあったに違いない。
<資料②>
他の造営事業の ために、全国から多くの工人・役夫が集められていた。天平六年(七三 四)五月一日付「造仏所作物帳」では、技術者の石工で一日一三文、石 を運ぶ運丁で一〇文(ともに一ノ五五七)、薪や楉(しもと、細長く伸び た若い木の枝)を採り、あるいは市から購入した物資を運ぶ雇人で三~ 五文の功賃を得ており(七ノ三六)、食料は別に支給されて
しかしながら、本稿の筆者にとっての大きな疑問は、なぜ相模国司は稀少な物件を売らざるを得なかったのだろうか。そして売却後、その機能は平城京内のどこへ移転したのだろうか。後者に関しては全く記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動静などは無関心であろう。
ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすいが、それは別稿にて紹介したい。
<参考論文>
市川理恵「平城京東西市における市司と市人」
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